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七、雄三、勘定奉行・江差奉行を歴任

雄三は、約六年間にわたり、尾花沢奉行として、その任務に専心努力しているが、その間に時勢は慌ただしく変転している。

安政五年(一八五八年)、江戸では、井伊直弼が大老に就任し、幕府は日米修好通商条約調印をはじめ、オランダ・ロシア・イギリスとつぎつぎに和親条約を結び、翌安政六年には、神奈川・長崎・函館を爾港し、米・蘭・英・仏・露の諸国との貿易を許している。

また、同じ年に、蝦夷地を会津・仙台・久保田・庄内・盛岡・弘前の六藩に分与し、警備・開発に当たらせる措置をとっている。なお、この措置については、漁民の強硬な反対があり、一部では騒動にまでなっている。

万延元年(一八六〇年)一月には、幕府軍艦奉行木村喜毅・軍艦操練所教授方勝海舟らが、咸臨丸でアメリカヘ渡航し、三月には、井伊大老が桜田門外で殺害される事件が発生している。

さらに、文久二年(一八六二年)八月には、薩摩藩士が、イギリス人を斬る、いわゆる生麦事件が発生。翌文久三年五月には、長州藩が関門海峡を通過する米・仏・蘭の艦船を砲撃し、七月には、薩摩藩がイギリス艦隊と交戦する薩英戦争が起こっている。

同じ文久三年(一八六三年)四月、松前藩主松前崇広は、幕府の寺社奉行に任命されている。
十二代藩主崇広は、九代目藩主章広の六男に生まれ、部屋住みであったが、学問好きで江戸で勉強し、外国語や西洋事情にも通じていた、なかなかの人物であったようである。

十一代藩主昌広は弱冠十五歳で藩主となり、藩政を壟断する重臣を更迭し、有能な家臣を江戸に留学させるなど、積極的に改革を進めていたようだが、二十一歳の若さで極度の神経衰弱になり、藩主を引退することとなった。しかし、その長男準之助(後の十三代藩主徳広)はまだ四歳の幼児にすぎないため、崇広に藩主の座が回ってきたという。
それにしても寺社奉行というのは、譜代大名から登用されるのが通例で、小藩の外様大名が任命されたというのは、異例の抜擢人事である。
しかし、かねて開港論者であった崇広に対する尊皇攘夷派の風当たりは強く、また松前藩の経済的負担も少なくないことから、三ヶ月ぱかりで辞任している。

こうした藩財政の困難なとき、雄三は、尾花沢での行政実績を買われてのことだろう、この年、松前に呼び戻されて勘定奉行の要職を任されている。
雄三はその後、三年ばかり藩の財政を預かっているが、その間、元治元年(一八六四年)藩主崇広は幕府の海陸軍奉行に就任、さらに翌年には老中・海陸軍総裁を勤めている。
藩主の幕府要職就任で、ことさらに支出の嵩む藩財政の切り盛りには、ずいぶん苦労したことと思われるが、雄三は無事勤め上げているようである。

慶応二年(一八六六年)、雄三は江差奉行に転勤している。江差(えさし)は渡島半鳥の西岸にあり、当時は福山・函館と並んで蝦夷三大湊の一つに数えられ、鯨漁と木材の積み出しで繁栄した湊町である。松前藩の主要な収入源を確保し、さらなる発展を推し進めるのが、彼に与えられた任務であったことだろう。

記録によれば、雄三は、任地に赴くや、ただちに消防隊を新設して防火対策を施し、他方、築港の利を説いて豪族達の協力を得、藩主に建議して、これを推進している。また山林濫伐の弊害を説き、山林保護法を定めるなど、かずかずの改革を行ない、成果を挙げている。

こう見てくると、雄三は単なる武人というより、有能な行政官であったことが窺われる。それとともに、関係する人々を説得し協力させる人徳を備えていたことが偲ばれる。

ramtha / 2016年10月17日