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十一、晩節の美学

函館戦争の終わった翌月、六月二十四日、版籍奉還が行なわれ、松前脩広は館藩知事に任命されている。

この時、雄三は権大参事心得を命じられているが、どんな職務であったのか、よく分からないが、新制度の下で、地方行政長官になった藩主を、各般にわたり補佐したものと思われる。

なお、この時、藩内は先の戦争により、ほとんどが焦土と化し。領民は住む家も無く、藩はまた財政に苦しんでいる。この現実を目の当りにして、急場を凌ぐ一助として、雄三は自らの私財、家宅を献上している。

また、今後の発展の基礎は人材育成にあると考え、藩主に進言して、領内の優秀な青少年を東京に留学させている。
雄三は新時代の行政官としても、その手腕を発揮しているようであるが、明治四年には自ら退職している。

彼の経歴書には単に「故ありて職を辞す」としか記されていないが、どうしてだろう。

顧みると、北辺の防人となるべく、松前藩に身を投じたのだが、その望みはわずかに樺太遠征にとどまり、その後は、尾花沢や江差の奉行を勤め、行政官としていささかの業績を遺し得たものの、みずから良しと信じて行動したクーデターは、事志と違い、多くの人を儀牲にし、挙げ句は松前藩全土を函館戦争の坩堝に陥れてしまった。

藩主の要請によるとは言いながら、多くの良民がいまなお、塗炭の苦しみに喘いでいるとき、ぬくぬくと官途に居座ることは、雄三の美学が許さないとであったものと思われる。

しかし、旧藩主の雄三に対する信頼は篤く、明治六年、松前家の家扶を要請され、勧めているが、これも二年ばかりで辞職している。

そして明治十一年、雄三五十四歳のとき、拓地開墾の目的で渡島国上磯郡谷好村に移住し、専ら農事に従事している。農業機械も無く、暖房設備も十分ではない当時の寒冷地での闘拓農業は、労多くして功少なく、大変な苦労をしたに違いない。しかし、彼はあえてその困難に飛び込み、多くの良民と同じ境遇に自らを置くことで、心密かに贖罪としていたのではあるまいか。

なお、前述したように、彼は家宅、私財の一切を抛って裸一貫で開拓地に飛び込んでいる。そのため実子五郎は長女カクの嫁ぎ先の佐藤家に預けている。
その時、義子の幹は雄三と同様開拓農業に従事し。後、周囲の農民に推されて村役人となっているが、幹の実母である雄三の妻女は、どうしていたのか分からない。

なお記録によれば、雄三は明治二十年、函館区宝町に移住している。娘婿の佐藤良仲は松前藩の典医を勤めていたが、廃藩置県の後は、函館に出て町医者を開業していることから推測すれば、六十三歳にもなった雄三に、いつまでも開拓農業の苦労をさせるのは忍び難く、娘夫妻が呼び寄せたのではあるまいか。

函館でどのような暮らしをしていたか定かではないが、明治三十二年、七十五歳のとき、今度は大阪府中河内郡加美村正覚寺に移り、さらに二年後の明治三十六年には、大阪府砥豊能郡池田町に転居している。

前述したように、実子五郎は娘婿の庇護の下で勉学しているが、やがて英語教師となり、その頃大阪府立八尾中学で教鞭を執っている。多分その五郎のところに老いの身を寄せたものだろう。なじみの無い大阪の地で、どのような晩年を過ごしたことだろう。没年は分からないが、幼少の頃から剣道に励み、人一倍体を鍛えてきたことだから、傘寿を過ぎてもなお長生きしたのではと思われる。してみると、明治三十七、八年の日露戦争の報道にも、その都度一喜一憂したことだろうし、久しぶりに、若き日の樺太遠征を思い浮かべたりしたことだろう。

ともあれ、日露戦争の勝利を見届けて、心安らかにあの世へと旅立ったのではないかと思われる。 (完)

ramtha / 2016年10月9日