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二、先祖の足跡を追って北へ

ところで恒士が、「尾見雄三」をキーワードとして検索していたところ、北海道上磯町の落合治彦氏の「松前藩士尾見雄三の上磯町に於ける顛末」と題するエッセイがあることを見つけた。そこで厚顔にも、落合氏にその写しを送って頂くようお願いした。

早速、届けて頂いた資科から、今まで知らなかった尾見雄三の家族のことなど、教えられることとなった。しかし、反面、今まで想像していたことと、矛盾することがらもあり、新たな疑問となった点もあった。

いずれにしても、落合氏の書面など見ているうちに、尾見雄三や佐藤家の先祖が暮らした蝦夷地を、この目で確かめたい思いが募ってきた。

しかし近年とみに裏えてきた体力を思うと、北海道まで出かけるのはと、躊躇していたが、恒士がさっさと旅行のスケジュールを組み、格安の航空券を家内ともども二人分予約してくれるに及んでは、さすがの私も足腰をさすりさすり旅立つ決意をすることとなった。

六月十二日、福岡空港十時四十分発JAL3511便で千歳へ向かう。
飯塚ではもう気温は三十℃に近く、半袖でも汗ばむ陽気だが、北海道はどうだろう。多少涼しい日もあることと思い、半袖シャツの上に薄手のジャンパーをはおり、リュックの中には.万一に備えてズボン下とセーターをそれぞれ一枚入れて出かけた。

ところが千歳空港に降り立ったら、気温は十六℃、あまりの肌寒さにぴっくりした。JRの空港駅で列車を待つ間に、早速セーターを引き出して着用した。

それでも南千歳駅のホームで函館行き特急北斗14号を待っている間、跨線橋階段の扉の中に入って寒さを避ける有り様であった。

南千歳駅十三時四五分発の列車は、冷たい雨の中を室蘭経由で函館へ向かう。
苫小牧の街並を抜けると、左手に太平洋の海が見えてくる。垂れ込めた雨雲の下で、大きなうねりをくりかえす波頭は。不機嫌そうな表情をしている。

尾見家五代目の当主與喜蔵興平が助務した様似(さまに)は、ここからは後方、襟裳岬へ延びる海岸線沿いにある。彼は様似頭役在職中の弘化三年(一八四六年)二十一歳の若さで亡くなっている。

様似頭役の職務内容は分からぬものの、多分、様似港を基地とする松前藩の漁業収益を確保することにあったのではなかろうか。そのためには気心も知れない現地のアイヌ人を監督使役するとともに、治安の維持や出没するロシア人に対する警戒など、若い彼には耐え難い緊張の日々を強いられたことだろう。

車窓から暗い荒海を見ていると、家屋や暖房など当時の粗末な生活環境が思い合わされ、松前に新妻と嬰児を残して、殉職にも等しい客死を遂げた彼の無念が偲ばれて来る。
白老、登別など、かつて訪れたことのある地名を沿線に見ながら、列車はやがて室蘭に入る。

工場の煙突が林立する室蘭の街を通り過ぎると、浜辺のそこここに、地引き網などの漁具が集積してある人家も疎らな海岸線を走る。

伊達、洞爺(昔の駅名は虻田)、長万部(おしゃまんべ)・国縫(くんぬい)・八雲と、列車は刻々と姿を変える駒ヶ岳を眺めながら噴火湾の縁を回る。

森町からは蝦夷松や椴松(とどまつ)など、私たちには馴染みの薄い北国の森に入るが、やがて風光明媚な大沼公園の中を通り抜ける。

南千歳駅から三時間十分、十六時四八分、函館駅に到着。
東大在学中の昭和十八年、青函連絡船で津怪海峡を渡り、ここに上陸し、ここから札幌・美幌へと旅立った筈だが、当時の函館駅がどのようなたたずまいであったのかなど、残念ながら記憶がない。

駅前広場に出ると、雨は降っていないが肌寒い。恒士が予約してくれていた駅近くのホテルニューオーテに投宿。

ramtha / 2016年10月30日