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三、佐藤家の墓を尋ねて高龍寺へ

六月十三日、函館の朝は生憎の雨模様、ホテルの部屋の窓から覗くと、下の道を挟んで向かいは海産物の朝市商店街。まだ六時前というのに、傘を差した観光客が、土産物を物色して歩いている。すぐ目の前の店先には水揚げしたばかりと思われる大きな蟹が脚を動かし、その隣の店先では、これまた大きな蛸が路上で蠢いている。

ホテルの二階に食堂もあるのだが、朝市の食堂街を覗いてみる。どの店もイクラやウニの丼(どんぶり)など魚介類をメインとする食堂が並んでいる。

中程の店のカウンターに腰掛け、「かんぱち定食」をとる。新鮮な焼魚でさすがに旨い。見ていると朝というのにビールのお代わりをしている客がいる。魚好きには、こたえられない食堂街だろう。多くの客が出入りし、客のオーダーを伝える威勢のいい声が店内を飛び交っている。

佐藤家歴代の墓は函館山の麓の高龍寺にある。私は学生時代、昭和十八年に一度お参りしたことがある。その畤は父の弟である三郎叔父さん(当時、五稜郭の近くに住んでいた)に連れられてお参りしたのだが、六十年も昔のことで、どのような場所にあったのか、全然記憶がない。

また我が家は父の代に九州へ移り、私の兄弟姉妹はいずれも九州生まれで、私も人生の大半を九州で過ごしてきた。そんなことで、ご先祖様にはまことに申し訳無いことながら、私はその後お墓参りをしていない。そこで今回は是非墓参りをして来たいと思っていた。

しかし、お墓の位置が分からないがと思い煩っていたところ、もう三十年も前のことだが、長男の恒士が学生の頃に、長女の史と二人で北海遭旅行をしたときの写真が出てきた。私の従兄弟で当時札幌に住んでいた佐康幸雄に連れられて、墓参りをし、ご先祖の眠る自然石のお墓の前で撮った写真である。この写真を持って行けば、容易に見つけだせるだろうと思っていた。

函館駅前のバスターミナルから、高竜寺行きのバスに乗る。函館山の麓を巡る坂道を上り下りすること三十分ばかりで、高竜寺前に着く。

観光ガイドブックによれば、高竜寺は寛永十年(一六三三年)に創立された曹洞宗の寺院で、亀田地区にあったが、明治二年の函館戦争の際、伽藍が全焼し、明冶十二年に現在地に移転。今ある建物は明治三十三年(一九〇〇年)建立された函館最古の寺院ということである。

見れぱなかなか立派な門構えである。後日、上磯の落合氏に伺ったところでは、北海道で最も由緒ある寺で、ここに墓を持つことは、北海道の住民には一つのステータスシンポルと考えられているとのことであった。

境内の裏手へ回ってみると、小高い丘へ向かって無数の墓がある。これでは写真を頼りに探しても簡単に見つけられるものではない。どうしたものかと思案していると、少し上の墓地で作業している人達がいる。写真を見せて、どこにあるか尋ねたが、分からないと言う。

表に回り本堂脇の事務所で若い住職に写真を示して尋ねるが、彼も分からないと言う。彼の話では境内の墓地には二千基以上の墓があり、高龍寺管轄の墓は、境内の外にもあり、合わせると一万基にも及ぷという。

特に佐藤姓の墓は無数にあり、また、関係者不在などで五年以上連絡がとれなくなった墓は整理しているので、探すことは難しいとのこと。

そこで、葬られていると思われる祖先の俗名を述べて過去帳等調べて貰えないかと頼んでみたが、過去帳はプライバシー侵害となるので見せられないと、若い住職の返答はまことに素っ気無い。

仕方がないので、今一度墓地に戻ってみたが、無数に並ぶ墓石の前に、ただ呆然と佇むのみ。見回すと、成程あちこちの墓に『何月時日までにご連絡がなければ整理します云々』という貼紙がつけられてある。子孫が跡絶(とだえ)るなどで、供養料が滞納となっている墓だろう。お寺の墓地商法を見せつけられた思いがする。

しかし、わが佐藤家の墓は、美幌の佐藤家が面倒を見ていると聞いているから、今もこの墓地のどこかにあるに違いない。持参した写真から推測すると、あの裏山の上の方にあるのではないかと思われる。上って探したい思いは山々ながら、雨降りの細い急な坂道の上り下りは、今の私には自信が無い。ご先祖様の眠っていると思われる丘に向かって合掌して、許して頂くこととする。

高龍寺前のパス停から路線パスで元町まで戻り、雨上がりの坂道を上って函館山ロープウェイに乗ることにする。夜の函館山山頂からの眺めは、俗に『百万ドルの夜景』といわれるが、霧の朝では何も見えない。切符売り場で「この霧でもいいですか」と念を押されたが、二度と来る機会も無いことと思われるので、乗ってみた。しかし、こんな時に秉る酔狂な客は私たち二人だけ。はたして頂上は深い霧に包まれて何も見えない。いたずらに肌寒いだけ。折り返しの便で麓に下りた。

ramtha / 2016年10月29日