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五、松前を歩く

六月一四日、大沢発七時四三分発の松前ターミナル行き路線バスに乗る。左手に穏やかな朝の海を見ながら進む。暫くすると松前の市街地に入ってきた。しかしバスはまだ先へ進む。ターミナル行きのバスだから、終点まで行けばいいだろと思っていたが、バスは町中をぐるぐる回ってから、町外れに出て西へ進む。終点について見たら、回りは人家も疎らな広場にバスの営業所がぽつんとあるのみ。

事務所の人に尋ねたら、松前の中心街に行くのには、三キロばかり後戻りしなくてはならないとのこと。ターミナルは街の中心にあるものと思い込んだのが大失敗。

タクシーを呼んでもらおうにも、この近くには無いという。三十分ぱかりしたら、町中へ向かうバスがあるから、それまで待合室でお待ちなさいと勧められる。天気は良いのだが、海からの風が冷たいので、待合室に入る。中年の男性所員がストーブのそぱに案内してくれる。

今夜の宿を探さねばならないので、しかるべき宿を教えてもらいたいと言うと、それでは松前のお城の前のホテル矢野がいいでしょうと、早速電話して予約してくれた。電話代を払おうとしたが、受け取らない。親切な応対に心も温まる思いがした。

教えられたバスで後戻り、松前城天神坂下の温泉旅館矢野へ入る。

リュツクを預けて、先ずは地図をたよりに町役場へ。矢野旅館を出て右へ行くと、す
ぐお城の石垣が正面に見え、その手前に小さいが小綺麗な建物がある。よく見れば観光客のための公衆トイレ付の無科休愈所である。観光案内図にはヒストリーオアシスと表示されている、なかなか酒落たネーミングである。

その前の道を右へしばらく行くと、左手に二階建ての町役場がある。観光課を訪ねて、「松前藩正義隊の尾見雄三について教えて貰いたい。」と申し出ると、「前の道をさらに上って行くと、松前町教育委員会の事務所がある。そこの文化財課の久保泰さんを訪ねなさい。」とのこと。

教えられた道を上って行くと、ほどなく左手の薄暗い森を背にした石垣の前に、「ロシア人ゴローニン抑留の地」と記された標柱が立っている。ゴローニンはロシア海軍の軍人で文化八年(一八一一年)千鳥列鳥を測量し国後(くなしり)島に上陸、松前藩に捕えられこの地に抑留された。後日釈放されたが、後に抑留中の手紀『日本幽囚記』を書き残している。

教育委員会の久保さんに会い、自己紹介したところ。尾見雄三の子孫がはるばる九州から訪ねて来られたとはと、びっくりされた。また、今朝は貴方と同じように、かつて松前藩の藩士であった先祖のことを詞べに、秋田から来られた人がいましたよと、話されていた。

尾見雄三は他国から松前に来た、今日で言えば途中入社の社員である。彼の行動には、松前生え抜きの人々からの風当たりも少なくなかったのではと尋ねたら、久保さんも
「確かにそれはあったと思われます。しかし、彼もそのあたりのことは心得ていたようです。正義隊のクーデターの時も、実質的には彼が一番の実力者ですが。表には鈴木織太郎等を立てています。もっとも、松前藩の名門、下国斎宮が尾見雄三の人物を認め、娘を雄三に嫁がせるなどして、終始支援していたようです。」と教えて頂いた。

また、松前藩ではロシアの南下に備えてのことと思われるが、幕末期に従来の藩士と同数位、多くの人材を召し抱えている。尾見雄三はその中でも特に傑出した人物であったようだと、子孫としては嬉しくなる話を聞かせて頂いた。

なお、佐藤家は松前藩の典医であったと聞いていますが、それを裏づける資料はないでしょうかと尋ねたら、久保さんは、資料室から書類を持って来られて、
「藩史にも御典医のことはあまり記録されていませんが、元治元年(一八六四年)に佐藤永治という医師が藩主の奥方に従って江戸へ出府したと記されています。」と、記載箇所を指差して教えて頂いた。

しかし、わが佐藤家では、私の曾祖父は良通、祖父は良仲と、代々名前に「良」の字を使って来ているように思われるので、「佐藤永治」という方は、我が家の祖先とは無緑のように思われるがと疑問を呈したら、久保さんは、昔の人は何度も改名しているので、それだけで無緑と断定は出来ないでしょうと言われた。

いずれにしても、これ以外の記録は残っていないようで、残念ながら資料の上で佐藤家の祖先の足跡を辿ることは出来なかった。

なお、久保さんに上磯町の落合氏のことを話したら、
「あの方は親子二代にわたる熟心な郷土史研究家ですよ。もともとは呉服屋を営まれておられたのですが、商売は奥さん任せで、郷土史研究に打ち込まれ、私たちもいろいろと教えて頂いています。ぜひ訪ねられたが良いですよ。」と勧められた。

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この後、来た道を後戻りして、搦手二の門から松前城への坂道を上る。この坂を尾見雄三も幾度となく上り下りしたに違いないが、百数十年後の今日の光景を、あの世からどんな想いで眺めていることだろう。

明治維新の松前戦争では。土方歳三率いる佐幕軍の攻撃で焼失した建物も今では再建され、三層の天守閣が新緑の木々の上に聳えて美しい。今では松前城資料館となっている本丸内を見学した後、案内板の指示に従って歩く。

大友宗麟が築城し、江戸期五万石の大名であった稲葉藩が居城とした臼杵城と同じ位の規模を私は予想していたが、城の回りを歩いて見たら、比べものにならない位の広さに驚いた。

本丸から北へ三百メートルほど行くと、桜資料館というのがある。今日は閉館しているが前庭の案内板をみると、松前の桜は某篤志家が大正時代から四十年余の歳月をかけて一三十種、一万本に及ぶ苗を植えて、今日の見事な桜の名所としたということである。さすがに北国の桜で、六月も半ばというのに、まだ木によっては一、二輪の花をとどめているものもある。白亜の天守閣を囲んで咲き胯る花のシーズンの美しさが偲ばれる。

桜資料館から左へ五百メートルほど行くと、江戸時代の松前の街並を再現したテーマパーク松前藩屋敷がある。中に入ってみると、海の関所「沖の口奉行所」・北前船で栄えた廻船問屋・鰊漁のヤン衆が集まってきた番屋や武家屋敷などが並んでいる。

出口の脇の土産物充り場で珍しい家紋入りのシールとキーホルダーを売っている。佐藤家の家紋の六本源氏車を見つけ、孫への土産に買う。

南へ坂道を下ると松前藩主松前家の墓所に出た。見渡すと、いくつもの小さな家の形をした墓が木立ちの中に静かに佇んでいる。片隅に召使の女性の墓もあった。奥方お気に入りの召使でもあったのだろうか。あの世までお供して、なお忠勤を励んでいるのかと思うと、いじらしくも哀れな気がする。

広い公園の中には阿吽(あうん)寺・法源寺・松前家の菩提寺の法幢(ほうどう)寺・専念寺・龍雲院・光善寺などの寺院の他、シャクシャインの乱のとき、殺害したアイヌの首の代わりに、持ち帰った耳を埋めたといわれる耳塚などもあるようだが、いささか草臥れたので宿へ戻ることにする。

夕食は昨夜のはまべ荘も魚づくしだったが、ここでも食べ切れないほどの魚料理で、板場さんには申し訳ないが、食べ残してしまった。

ramtha / 2016年10月26日