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八、江差を歩く

早速郷土資料館前の護国神社へ向かう。公道より少し上がった丘の上に鳥居があるが、その向こうは日頃訪れる人も無いのだろう、私の膝の高さまで雑草が生い茂っている。

雑草を踏んで進むと、境内の右手にそれぞれに柵で囲まれた墓地が四つある。ここも一面の雑草であるが、古くなった立て札の文字をよく見ると、四つの区画は松前藩・長州藩・津軽藩・備州藩と、松前戦争に参加した官軍の各藩別に戦死者を葬っているようである。

松前藩の墓地の中央に氏家丹宮の墓があった。尾見雄三が最も信頼していた戦友と聞けば、そこに身近な人が眠っているように思われる。冥福を祈って合掌する。

上って来た坂を下り、クリーニング店のある角を右へ宮原氏に頂いた地図に従って進む。江差小学校の前を通りすぎると、右手に「旧檜山爾志郡役所跡」と記された掲示板のある建物が現れる。ここが江差奉行所のあったところである。

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その前庭に立って西を見ると、目の下に日本海の青い輝が見える。あの海の向こうはロシアの沿海州か、尾見雄三も毎日のように、ここに立って眺めたに違いない。
若き日に、進入して来るロシア人を追い払うぺく樺太遠征をした彼は、ここで如何なる想いを巡らしたことだろう。

奉行所跡から坂を下ると、綺麗な街並の大通りに出た。

ガイドブックを見ると、これが近年整備されたという「いにしえ街道」のようである。四車線の両側には、ゆったりとした歩道が設けられている。建物にも規制がされているようで、まわりの景色を楽しみながら、そぞろ歩きをするのにふさわしい、まことに気持ち良い通りである。

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この通りを南へ進むと、やがて左手に、教えて頂いた姥神神社があった。
境内はさほど広くはないが、雄三が率いて松前に駆けつけた士卒は九十余名であったということだから、彼らが挙げる旗揚げの鬨(とき)の声は、あの裏山に谺(こだま)したことだろう。

姥神神社の前から海辺へ突き出した道がある。その道を行くと、奥尻鳥へのフェリーの発着所がある。掲げられている時刻表を見ると、一日二往復で、午後の便は今出たばかり。その便に乗れば、夕方までに奥尻島往復ができたのに、まことに残念なことであった。

一旦いにしえ街道に戻り、今度は鴎島へ向かう。鴎島は江差の町から海へ突き出した砂嘴の先に横たわる島で、全体としてT宇型の半島を形成している。博多湾における海の中道と志賀島に比べれば、スケールは小さいが、同様に防波堤としての機能を果たしている。

この地形が江差に自然の良港をもたらし、江差の繁栄を支えたに違いない。かつては北前船の往来と鰊漁で栄えたここ江差は、江戸にもまさる賑わいを呈したといわれ、まさに松前藩のドル箱であったようである。

十二代藩主松前祟広は幕府寺社奉行に抜擢され、さらには老中まで勤めているが、その職務を全うするため、松前藩は少なからぬ経済的負担を余儀なくされている。

まさにその時期、雄三は藩のドル箱を確保するため、江差奉行に任じられている。
かつて尾花沢奉行として優れた業績を挙げた彼の行政手腕が、買われてのことであったのだろう。
鴎島へと続く砂嘴の、南側の湾内に三本マストの帆船が繋留されている。戊辰峨争のとき榎本武揚率いる佐幕軍艦隊の主力艦でありながら、荒天のため、ここ江差沖で沈没した開陽丸を引き上げて、復元したものである。
現在は開陽丸青少年センターとして一般に公開されている。         。

今日は好天に恵まれた一日であったが、夕方近くなると、肌寒い風が出てきた。いにしえ街道に面するホテル寺子屋へ戻る。

事前に江差観光協会に紹介してもらった宿だが、「寺子屋」という名前から、昔造りの古びた建物を予想していたが、来てみると二階建ての明るい旅館である。

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案内された部屋で一息いれると、早速、上磯町の落合氏に再度電話する。今度はご本人が電話口に出られた。明日お伺いしたいがと、ご都合を伺ったところ、快諾して頂いた。

玄関脇の明るくこぢんまりした食堂で夕食となる。
ここの食膳にも新鮮な魚介類がふんだんに登場してくる。いずれも美味しいご馳走には違いないが、日頃淡泊な九州の魚になれた我々の口には.脂ののった北国の魚はいささかしつこく感じられ、折角の料理をまたまた食べ残してしまった。

ramtha / 2016年10月23日