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第三十七話「風樹の嘆(福井さんのこと)」

麻生入社の当初、上三緒炭坑での現場実習に参加したとき、我々実習生の専任指導員が福井昌保さんであったが、それは私の人生に、とっての一つの大きな巡り会いであった。

もっとも、後で想い合わせてみると、福井さんに初めて出会ったのは、昭和十六年の夏であった。当時私は福岡高校の三年生であったが、夏休みに福岡市地行の斯道塾で行われた講座に参加受講した。その折、イガ栗頭で丸縁眼鏡をかけ、国民服姿で講師の先生方に、なかなか辛辣な質問をする受講生がいたが、それが麻生入社間もない頃の福井さんであったようだ。

福井さんは私より六年ばかり年長、五高、九大法文科を出られた無類の勉強家であった。ことに大学では法律を専攻されたとかで、当時、麻生商店から麻生鉱業株式会社へ衣替えして、まだ日も浅く、社内規程らしきものもほとんど整備されていなかった時代に、事務一分掌規定や就業規則をはじめ、社内規程の大半を立案制定する業績を残された。麻生が近代的株式会社としての体裁を整えるにいたったのは、福井さんの精力的な努力によるところがきわめて大きい。

しかし、その優れた学識や能力もさることながら、私が福井さんに惹きつけられたのは、一本気な正義感と人情味豊かなそのお人柄であった。

実習中に会社の沿革、概況、石炭業界の事情をはじめ、会社各部門の役割とその問題点など、実に広汎な領域にわたって、福井さんの講義を聞いたことであったが、その該博な知識と、それを支える勉強の深さには、ただただ驚嘆の他はなかった。とりわけ怠惰不勉強な私は、とてもかなわないと言うのが、偽らざる実感であった。だから実習後半に課せられたレポートの提出に当たっては福井さんからなんと酷評されるかと。内心忸怩(ジクジ)たるものがあった。

しかし私の無能さ加減は先刻お見通しであったのだろう、「大変よく勉強されましたね。」と褒めて頂いたが、それはレポートの出来具合いについての評価ではなく、愚鈍な私の、それなりの努力に対する労わりの言葉であったにちがいない。

当時の上三緒炭坑での実習生は、戦争帰りの復員学卒者集団で、若さのあまり、遅刻、早退など従業員としてのルールを逸脱する行為もままあり、実習生を管理指導する立場にあった福井さんのご苦労は、並み大抵のことではなかっただろう。しかし、そうした時も、根気よく実習生の言い分も聞かれ、説得指導されていたことであった。

福井さんご自身は、非常な勉強家であり、最高学府まで修められた方であったが、学歴や身分などで人を差別されるようなところは全くなく、誰とでも誠心誠意交際されていたので、職場の部下や後輩はもとより、下請け業者や鑛員に至るまで、そのお人柄を慕う者が少なくなかった。

正月の年始にお伺いした折など、そこで毎年ずいぶんいろいろな人に出会ったことであった。そうした年始客の応対には、奥様もずいぷんご苦労があったことと想われるが、ご夫婦で快く迎えられると、ついつい長居してご迷惑をおかけするのが何時ものことであった。

正月といえば、昭和二十一年の元日は、郷里が遠く、敗戦直後の当時の交通事情では、帰省を諦めざるを得なかった実習生数人が、報国寮で越年したことであった。
私もその一人であったが、福井さんは元日の朝わざわざ上三緒まで来られ、われわれを引きつれて、福永坑長宅から社長のお邸へと、年始回りの先導をして下さった。

さらにその後、旌忠公園下のご自宅に案内され、たいそう歓待して頂いたことが思い出される。その時お邪魔したのは、土谷君、高井君、沢田君、私など六、七人もいたかと思う。終戦直後の極度な物資不足の折、奥様のご苦労は大変なことだったに違いないと、今にして想われるのだが、世間のことなど分からぬ当時は、すすめられるままに、たらふくご馳走になったことであった。

その後福井さんは上三緒炭坑労務係長を兼ねられ、住まいも上三緒の社宅に移って来られたので、私は何かといえば、ご自宅へ押しかけて再三ご迷惑をおかけしたことであった。奥様は、たしか熊本県八代のご出身とか伺ったことがあるが、まことに慎ましやかな穏和な方で、ご夫婦の間で交わされる会話のはしばしから、仲睦まじい夫婦愛が窺われたことであった。

昭和二十四年、私は順子と結婚するに当り、常日頃尊敬する福井さんに仲人をお願いすることとした。福井さんは、かつて職場を共にしたこともある順子をよくご存知で、私達の結婚に賛成して頂いたが、仲人役には自分はまだ未熟だから、当時企画室事務課長をされていた吉鹿さんにお願いしたらと言われる。

吉鹿さんは、私が麻生の給費生に採用された当時、人事を担当されていた方でもあり、私も順子もかつてその下で勤めていたこともあった。謹厳なそのお人柄は日頃から尊敬するところであったが、若造の私には、ちょっとかけ離れた存在で、何もかもブチまけて甘えるというわけにはいかない感じであったし、かねてから仲人は福井さんご夫妻にと心に決めていたことでもあったので、遮二無二お願いした。

福井さんとしては、随分ご迷惑なことであったろうが、最終的には快く引き受けていただいた。

私達の結婚については、わが家では当時兄が未婚ということもあり、当初母が反対していたし、順子の父は私の病弱に二の足を踏むという有様であったが、福井さんは双方を説得し、結婚にこぎつけるところまで、大変なご尽力をしてい頂だいた。そのうえ私は日頃無計画な暮しでなんの蓄えもなく、ごく僅かな結婚資金を差しだし、これで一切合切よろしくと、今から考えると、厚かましい限りのお願いをしたことであった。

それにもかかわらず、納祖八幡宮での結婚式から、福井さんのお宅での披露宴(それは双方の親族だけの、ごく内輪のものであったが)まで、何から何まで取り仕切っていただいた。

翌日、双方の父親が形ばかりの謝礼をもってお宅に伺ったが、その日の夕方、福井さんはわざわざ結婚費用の収支明細書をもってこられた。その時私はただただ恐縮して承っただけだったが、私がお預けした僅かな金額では不足したに違いなく、収支明細以外に手出しされて、なんとか結婚式の形をつけて頂いたのではないかと今にして想われて来る。

なお、その時「これは私からのお祝いです。」と言われて、先刻父達が持参した謝礼の倍額ほどの祝い金をいただいたことであった。無一文で新生活を始める私達への暖かいご配慮に、お礼の申し上げようもない思いをしたことである。

結婚に際して、こんなに物心両面にわたって、仲人にお世話頂いた花婿は、世間に私をおいていないことだろう。

福井さんとは、職場を共にすることはついに無かったが、私は思いあまることがある度に、教えをうかがったことであった。

福井さんは、まことに心の美しい方であったが、それだけに他人を信じやすく、ずいぶん信頼を裏切られたことも少なくなかったようである。かつて福井さんの信頼を受け、子会社の経理責任者となった某が、会社の金を着服するという事件が発生した。事件発覚後も福井さんは最後まで彼を信じておられたようで、その期待が裏切られたことが判明したときは、なんとも慰めようもない程お気の毒なことであった。

たしか昭和四十年のことだったと思うが、それまで経理課長、管理部長などの要職を歴任され、衆目の見るところでは、いずれ本社重役にと想われていた福井さんが、麻生建設の常務に転出された。その間の経緯は分からないが、唐突な人事という印象があったと記億している。

福井さんの年をとっても変わらぬ潔癖感、歯に布着せぬ正論が災いしたのだろうか。そのあたりのことは、ご自身なに一言も洩らされなかったので、とやかく考えても揣摩憶測(しまおくそく)の域をでない。いずれにしてもロマンチストで学究肌の福井さんが、土建業の会社にとは、どうも所を得ない感じがしたものであった。

その頃、長年嗜まれた煙草をふっつりとやめられたようだ。
「佐藤さん、貴方も煙草をやめなさい。飯が旨くなりますよ。」
と言われていたことを想い出す。禁煙されたせいか、以前よりだいぶん肥えられた感じであった。

昭和四十三年、あれはたしか三月下旬の日曜日だったかと想う。私は前日から職場の懇親旅行にでかけ、夕刻帰宅したときであった。家に入ると同時に、家内から
「福井さんが今朝亡くなられましたよ。」
と聞かされ、ビックリした。二、三日前にも、本社の玄関前で元気なお姿を拝見したのに、どうして・・。

聞くところによると、福井さんは、その頃郷里の折尾にマイホームを建築中であった。土曜日の夜は翌日の棟上げに家族そろって出かけるのを楽しみに、格別機嫌よく談笑されてやすまれたとか。翌朝、なかなか起きてこられないので、奥様が起こしに行かれてみたら、すでに事切れていたと言うこと。心筋梗塞ででもあったのだろう。
医師の診断では、前夜床に入られて間もなくのことだったらしい。
まだ五十の坂を越えられたばかりの、余りにも早い、余りにも急なあの世への旅立ちであった。

福井さんの才能と人柄は、太賀吉社長も高くかわれていたものであったろう、葬儀の日、社長自ら足を運ばれ焼香されたのは異例のことであった。また生前の人徳を慕う人々の焼香の列は、いつまでもいつまでも続いたことであった。

私達夫婦が今日あるのは、ひとえに福井さんのご援助によるものだが、なに一つご恩返しも出来ないうちに逝かれてしまった。

ご遺族は間もなく折尾の新居へと移られたが、私達夫婦は初盆のお参りに、折尾駅裏の高台にある、そのお宅に伺った。今はその周辺も、すっかり家が建て込んで住宅街となってしまったが、その当時は、まだ家もまばらで、高台をわたる涼しい風が、お座敷の中まで吹き込んでいた。

この家の棟上げの日に亡くなりし
福井先生よ涼しい家ですよ (昭和四十三年八月十五日)

かえりみると、あれから既に四半世紀、不勉強な後輩は、無為に生きながらえて、ときに福井さんを忍んでは風樹の嘆をかこつのみである。

(平成二年)

(註)風樹の嘆=「樹靜かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず。」

ramtha / 2011年3月18日