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第三十八話「仕事に自信を、会社に貸しを(小樋さんのこと)」

昭和二十四年、私が吉隈炭坑労務係に転じた当初の係長は原田光さんであった。

当時の吉隈労務には、職員、代務者あわせて六十名をこす係員がいたが、今から考えてみると、あれほどの人間が、いったいどれだけの仕事をしていたのだろう。戦後まだ日も浅い頃で、食糧配給制度が生きていた時代だから、それに伴う事務を担当する者だけでも四、五人はいたようだ。その他、鑛員住宅の管理、事業所や社宅の衛生管理、福利厚生の事務など数え上げれば、まことに種々雑多な仕事が、労務係の守備範囲に含まれてはいたが、どう考えても人員過剰の感があった。しかもそれだけの人数を擁しながら、事務は停滞しがち、鑛員の就業率は社内で最も低い有様であった。

当時は世の中一般に、敗戦を境に旧秩序が崩壊し、米軍の日本進駐とともに持ち込まれた民主主義というものが、まだ国民に十分咀嚼されず、未消化のまま横行していると言った世相であった。職場でも労働組合の発言力が強く、職制も組合幹部の鼻息を窺いながらと言う傾向が見受けられる時代であった。

加えて吉隈労務では、係長が持病のため休みがちということもあって、職場の士気は著しく停滞していた。多くの係員は、目先処理しなければならない事だけを、習慣と惰性で格好をつけて、その日その日を糊塗している有様であった。

私自身も炭坑労務の駆出しでもあり、元来さはどの向上心も無い怠惰な性分から、このぬるま湯にドップリと浸かっていたことであった。

そんな状況の中、昭和二十五年、人事異動で新しく労務係長として赴任してきたのが小樋虎雄さんである。小樋さんは、上背のあるガッシリした体格で、身綺麗で清潔なと言うのが、その第一印象であった。前係長が、ともすれば深酒をしては休みがちな有様であったので、ことさらに新鮮さを感じたのかもしれないが、これで何かが変わるという期待を抱いたことでもあった。

それまで浩星寮の舎監として、独身寮生の管理に当たっていた私は、新係長による配置代えで、内勤主任を命ぜられた。その時、労務係の序列では、私より上席者がまだ三、四人いたのだが、係長は私に、職務分担は内勤主任だが、労務次席のつもりで仕事をするようにと言われる。私より高給の先輩が居ることだから如何なものかと私は後込みしたが、みんなには自分から話すので心配はいらないと言われる。そして
「サラリーマンは、給料より高い仕事をしている時が一番幸せですよ。高い給料を貰って楽な仕事をしていれば、いつも負目を感じていなければならないが、やすい給料で責任の重い仕事をしていると言うことは、その分、会社に貸しがあると考えていいでしょう。いつも社長に貸しがあると思えるほど気持ちのいいことは無いでしょう。」
と諭されたことであった。

また、それからほどなく、
「佐藤さん、係員の中には、まだ労働基準法をよく知らない人がいるようだから、みんなに分かりやすい解説書を作ってください。」
と命じられた。

労働基準法は、昭和二十二年に制定されていたが、吉隈労務では、多くの人が目も通さず、聞きかじりの知識で日常業務を処理しているという有様であった。

私は早速、日頃労務係が遭遇する、鑛員の募集、採用、賞罰、解雇などの事項について、それぞれのケース毎に事務手続きのルールと関連する就業規則、労働法規の条項を対照した粗末なハンドブックを作成したが、それは私自身にとってこの上もない良い勉強になったことである。

たしか、そのハンドブックの説明会のときだったと思うが、小樋さんは、
「仕事を処理する上で、必要な知識を持たないことぐらい不安なことはない。十分な知識をもっていれば、組合がなんとクレームをつけようが、自信をもって対処することができる。自信をもって仕事をすること程楽しいことはない。楽しい日々を送るためにこれを読んで勉強しなさい。」
と一同に話されたことであった。

小樋さんは、福岡師範学校出で、以前は先生をされていたようだが、その教育指導ぶりには、まことに感じいったことである。

当時の吉隈炭坑の鑛員就業率は、前にも述べた通りだが、鑛員の就業を管理すべき外勤係も、組合の抗議を恐れて、就業督励も出来かねる有様であった。こうした状況の中で、赴任してきた小樋さんは、早速、毎週定例の外勤会議を催し、外勤一人一人に、その受持ち鑛員の欠勤状況とその理由を説明させ、それに対する処置について所見を述べさせられた。私も次席心得として、この会議に出席させられたが、係長が、この低迷する就業率を、どうやって向上させるのだろうと、内心興味をもって眺めていた。
外勤係員は受持ち鑛員の欠勤者について、病気の者については、その病状と職場復帰の見込み、事故欠勤者についてはその事情などについて説明する。係長は、それら一件ごとに、病欠者については医師の所見を、事故欠勤についてはその事情の確認を求めるとともに、無断欠勤者、いわゆるズル休みの者には口頭注意をするよう指示される。

次回の会議では、前回の指示を外勤係員がどのように実行したか、一件毎に詳細な説明が求められる。これには係員一同ホトホト参ったようである。従来の上司の指示は、おおむねその場で、うやうやしく承っておけばよく、こうしたフォローは無かったが、こう丹念に追及されては、その場のがれは許されない。

無断欠勤の常習者に対しては、二回目から始末書を取り、それが三枚以上溜れば、退職願いを出すことを誓約させると言うやりかたである。この始末書の東を見せられては、組合幹部もクレームの付けようが無く、吉隈の就業率は次第に上向いていった。

まだ、その頃はアメリカ式の経営管理などというものは入って来ていなかったが、いまから考えてみると、小樋さんのやり方は、まさに経営管理の基本である、(plan・do・see)のマネジメント・サイクルを実践していたものであった。しかも、就業督励の具体的方法は、担当者自身に考えさせ、実行させると言う、いわゆる参加意識によるモラールの向上を狙ったものでもあったと言える。

炭坑の労働組合との間では、賃金配分、住宅などの福利厚生に関する事項、就業規則違反者に対する処置など、日常折衝することは、数限りなくあった。そうした時、係長は私の教育を配慮されてのことであったろう、何時も私に同席を命じられた。話合いでは、おだやかに話のまとまることもあったが、ときには組合長が卓を叩いて激論に及ぶこともある。論争の果て、今日は喧嘩別れに終わるのかなと思っていると、係長は話題を変えて、組合長の子供の進学のことや、炭住内の噂話、時には新聞の三面記事などを取り上げ、相手の笑いを誘い、「今日は結論がでなかったが、お互い頭を冷やして、また話し合うことにしよう。」と送り出された。そんなとき私に
「会社と組合とは親子のようなもので、いくら相手に腹を立てても、縁を切ることはできない。だからどんなに激しく言い合っても、別れるときは笑顔で送り出すことが大事なんだよ。」
と話されたことであった。

またあるとき、
「佐藤さん、男は仕事を好きになることは結構だが、会社に惚れ込んじやいけないよ。商売女はお客に惚れさせても、お客に惚れては駄目だと言うでしょう。会社は自分に惚れさせるもので、まちがっても自分が惚れるものではないよ。」
と言われたことがあった。

その当時はまだよく分からなかったが、いまになって思えば、会社から必要とされる人間であっても、会社がなくては生きていけない、言い換えれば世間に通用しない人間は駄目だと教えられたことであった。

若い日の私にとっては、小樋さんから教えられたことは、まだまだ限りなくある。その小樋さんの下で一年ばかりたったとき、本社転勤の内示があった。その頃の私は、その年のべースアップにもとづく賃金展開の作業は一段落していたが、旧態依然たる吉隈労務の事務組織の改善は、ようやく軌道に乗せかけたときであった。そのことも心残りであったが、尊敬する係長からまだまだ多くのことを学びたかったし、本社労務課で十分な仕事をなし得るためにも、もう暫くここで勉強させて貰いたいと思い、その意向を申し述べた。
それに対して小樋さんは
「そう言って貰うのは、私としても嬉しいことだが、人生には潮時がある。貴方は、いずれ本社の木庭さんの後をついで活躍すべき人だから、この際、本社に移って勉強する方がいい。貴方はもう少し勉強してと言われるが、お産の稽古をして嫁入りする娘さんはいないよ。」
と言われたことであった。

小樋さんの指導を受けたのは、一年ばかりに過ぎなかったが、教えられたことはまことに多く、今になって思えば、実社会入学の当初に、まことに良き師にめぐりあえたものと深く感謝している。(平成三年)

ramtha / 2011年3月16日