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第三十九話「クマさんのこと」

麻生在職中、私は数多くの上司や先輩から指導して頂いたものだが、なかでも六年余にわたる本社労務課時代、労働部長をされていた熊谷さんからは、直接、間接、実に多くのことを教えられたことであった。

私が吉隈炭坑労務係から本社労務課へ転勤した当初、熊谷さんはすでに労働部長職にあり、その下には、労務課長に小林虎雄さん、課長代理として木庭暢平さんがおられた。だから一般の職場だったら、とても一課員に過ぎない私などが、気軽くものの言えるような関係ではないのだが、熊谷さんには、なんでも遠慮なく話をさせていただいた。熊谷さんは、いわゆる聞き上手と言うのであろうか、誰にでも、その心を開かせ、その思いを余すところなく喋らせる、そうした人徳を備えられていたようだ。
日頃は、決裁すべき書類に捺印されるほかは、専ら新聞に目を通されるか、文芸春秋を読んでおられるだけで、自ら筆を執ってと言う姿は拝見したことがない。だから課長以下、私ごときものまで、いつでも部長に話かけ、意見や思い付き、時には仕事と関係のない雑談まで、平気ですることができた。部長は、私達のそんな身勝手な話かけにも、いつも耳を傾け、嫌な顔をされたことなど、ついぞ無かった。

そんな風であったから、森峰三郎、胡谷稔、稲見桝夫と言った労働組合の幹部達も、よく訪ねて来ては、部長と話し込んで行ったことである。また、総務、経理、時には技術畑の幹部の方なども、熊谷さんの席に寄ってきて、何かと話をされていたことであった。

そのような時、熊谷さんの先輩にあたる柳重役や、同輩の豊沢さん、日高さんなどは、「クマさん」と呼びかけておられたが、若輩の私達まで、陰での会話では「クマさん」と呼ばせていただいたものである。それは上司を軽視してのことではなく、自分達のオヤジに対する敬愛の表現であった。

太賀吉社長の側近として、日夜ずいぷんと心労の多かった吉鹿常務も、他の人には打ち明けられない苦衷を、熊谷さんにだけは洩らされていたようである。

熊谷さんの聞き上手というのは、相手の話が、どんなに拙劣でも、また興味のないことでも、いつも話手と一緒になって悩み、考えながら聞いているように想われる、その態度にある。

あれは私が労務課に赴任して、まだ日も浅い頃だったから、昭和二十六、七年のことだったと思う。当時、上三緒炭坑で事業所と上三緒労組との間にトラブルがあり、(定かな記憶はないが、採炭夫の標準作業量設定をめぐる問題ではなかったかと想う)上三緒労務のM係長が、事情説明に来たときのことである。

熊谷部長の席へ向かってM係長が報告をはじめる。その傍らで小林課長、木庭課長代理、それに私が聞いている。M係長というのは、よく将校服姿を見かけた気がするので、戦時中は職業軍人であったのかもしれない。前頭部が禿げ上がり、髮も薄くなっていたが、年のころは四十代後半ぐらいではなかったかと想う。

少しくぐもり声、深刻な顔つきでボソボソと説明を続ける。ところがその話ぶりは、小学生の綴り方よろしく、問題の本筋とは無関係な横道に入ってとめどがない。労務管理の重要な話だから、真面目に聞かなければと思うものの、いささかウンザリ。課長や木庭さんの顔色を窺うと、これまた閉口されている様子。退勤時間直前に始まった彼の報告は、社員のほとんどが退社したあとの寒々とした事務室で延々と続く。私などは、後半は彼の説明を理解することを諦め、彼の単調な音声だけをききながら、ひたすら鳴り止むのを待っていた。

ところが熊谷さんはと見れば、彼の話に時折うなづきながら、熱心に聞かれている。
私は内心、彼の話が理解できるとは、部長の頭脳はどういう構造になっているのだろうと思ったりした。

M係長が長い報告を終えて退去したあと、課長以下私達は、長い拘束から解放され、両手を挙げて背伸びでもする想いであったが、彼がなにを話していたのか皆目わからない。話を理解されているのは部長だけのようである。私達三人が異口同音に「部長、今の話は結局どういうことだったのですか。」と尋ねたら、部長は「君たち聞いてなかったのかね。M君の話はサッパリ分からなかったが、てっきり君たちが分かっているものと想っていたよ。」と言われ、一同唖然とするとともに大笑いしたことであった。

M係長の長時間の説明は、結局だれにも分からず、翌日あらためて上三緒労務から野見山芳久君を本社に呼び、事情を聞き、彼の要領を得た説明で、事の真相を知ることができた。

それにしても、熊谷さんのあの聞きぷりでは、M係長は、自分の話を他の人はともかく、部長にだけは分かって貰えたと信じていたに違いない。余人の及ばぬ熊谷さんの名人芸であった。

その頃、労働部では麻生労連との労働協約の改訂期に当り、その交渉が行われていた。それと並行して就業規則の改正作業にもかかっていた。労働協約は、会社と労組との間の権利、義務を確定するものだから、最終的に双方の合意が成立しなければ、締結できない。

しかし就業規則は、労働基準法に示された労働条件を満足するものであれば、組合の同意を得られなくても、その意見書を添えて、労働基準監督署に提出受理されれば効力を発することとなっている。だから就業規則の内容については、別に組合との交渉は必要としない訳である。

ところが、麻生では熊谷部長の方針で、就業規則も交渉事項として、組合との間で話合いがおこなわれていた。労使間の交渉となれば、お互いの利害、主張が対立し、おいそれとは進展しない。こらえ性のない若造の私などイライラしてくる。

法的には、組合の同意は不要なのだから、組合に反対意見があったとしても、それを付けて監督署に届出れば、それで済むことではないか。タラタラと組合の同意を得るまで交渉するなど、時間の無駄に過ぎないと思ったことであった。すると部長は、
「佐藤君、就業規則というものは、従業員が守り、従わなければ、意味がないよ。初めから反対なものに誰が真面目に従うかね。組合の同意を得て出来上がったものであれば、組合員にとっても、それは自分達が作ったものとなるから、心から守る気になるものじやないかね。
就業規則は、それが在ることが大事なことではなく、みんなが守り、従うことが大事なんだよ。」と諭されたことであった。

昭和二十七年、課長代理として、それまで組合交渉の資料や会社提案の作成などを担当されていた木庭さんが転出され、後任には赤坂炭坑の労務係長であった戸次吉兵衛さんが来られた。しかし戸次さんは、それまでずっと出先事業所勤務ばかりで、本社労務課の業務には不案内であったため、交渉資料の作成や賃金展開の作業などは私が担当することとなった。

時を同じくして、組合側でも、それまで賃金専門委員であった角谷君が退き、新たに吉隈労組の中島君が麻生連合の賃金専門部長となった。中島君とは、私が吉隈労秘時代に、事業所における賃金展開や標準作業量の設定などで交渉の相手をした間柄である。だから彼の大人しい人柄や、組合幹部としての能力なども、よく知っていた。それで、彼に果して連合本部の賃金専門部長が勤まるだろうかと、私は心ひそかに危惧していたところであった。

彼自身も新任務への不安があったに違いない、就任の挨拶のため労務課へ来たとき、
「初めての仕事で何も分かりませんが、貴方がいらっしやるのでホッとしました。何分ともよろしく。」
と私に何度も頼み込んで行ったことであった。

やがて春闘の時季がめぐって来て、私と中島君は会社側、組合側と立場を異にするものの、お互い賃金展開交渉の窓口責任者として、初めての仕事に取り組むこととなった。

当時の賃金改訂は、会社、組合それぞれの上部組織である、九州石炭鉱業連盟と全国炭坑労働組合連合会との間の集団交渉で、坑内夫、坑外夫の、それぞれ一人当りの新賃金額(一方当り賃金=日給額)が決められる。

次に各社ごとにそれを持ち帰り、坑内夫で言えば、採炭、仕繰、堀進、運搬などの各職種の新賃金額を、労使の交渉によって決定する。これが本社労働部と麻生連合との間で行われる賃金展開である。

なお、ここで決定された各職種の賃金額にもとずいて、それぞれの事業所で、切羽(採炭現場)ごとの標準作業量の設定や、従業員各個人の日給額の査定がなされるのだが、これを山元展開と言ったものである。

ある日、集団交渉で決まった坑内、坑外別の新賃金にもとずいて、各職種の賃金額を算定する会社案の作成作業をしているところに、中島君が一人で私を訪ねてきた。
別室に案内して、彼の話を聞く。彼は、彼なりの賃金展開案を私に示して、この組合案を会社側でも承認してほしいと言う。そこで彼の言う組合案を見てみると、なるほど理論は一貫しているものの、私が作成中の会社案と比べると、賃金支払い額では、相当減少することになる。

同じ平均日額を展開しても、直接小職種に展開するか、一度中職種に展開し、さらにこれを小職種へと二段展開するかによって、末端の各職種の賃金額に差違が生じる。

もう四十年も昔のことで、その詳細がどういうことであったのか記憶していない。しかし、いずれにしても彼による組合案は、会社としては、支払い額が少なくて済む有利な算式である。私は内心、しめた、この組合案を丸のみしていいではないかと思ったが、そしらぬ顔で、
「俺一人で良い悪いと言うわけにはいかん。上司に相談して後日回答する。」
と応えて別れた。

席に戻った私は、部長に中島君の提案を説明し、組合案をそのまま認めてやろうじやないですかと進言した。
すると熊谷さんは、
「佐藤君、それはどうかね。彼は君を信頼してるんじやないかね。彼の信頼を裏切ることにはならないかね。」
と言われる。
「いいえ、これは彼の方から持ち込んで来た案ですから・・・」
「それはそうだろうが、君がやっているような、展開方法が別にあると、後で分かったら、組合内部で彼の立場が悪くなるだろう。そういうことにならないように、君が教えてやったらどうかね。中島君が就任の挨拶で、特に君によろしくと頼んでいたのは、こういう場合のことではなかったのかね。」
と諭され、私は返す言葉もなかった。

翌日、中島君を呼んで、私の展開算式を示し、これを組合案とすることをすすめた。彼はいたく感謝して帰って行ったが、人のいい彼は、このことを自分一人の胸に秘めることなく、労連の稲見事務局長に話したもののようで、後日私は稲見君からも礼を言われたことであった。

一時の損得より、労使の信頼を大事にされた熊谷さんの哲学が、組合の健全な発展を促し、安定した労使関係を築いたことであった。そしてエネルギー革命に揺れる石炭業界の中で、麻生だけが争議らしきこともなく、平穏の裡に閉山撤退することが出来たのも、長年にわたる熊谷労政のたまものであった。

労務課時代はもとより、後年文書課長をつとめたときも、人事担当常務としての熊谷さんに指導を仰いだが、趣味の囲碁でも長年の碁敵として、幾たびとなく鵜鶩を競ったことである。休日にはたびたびお宅にまでおしかけたりしたが、ときには山内労務の永末五郎さんや営業の伊藤昭一郎君なども集まって、ずいぶん賑やかな碁会となったことも少なくない。

そのたびに茶菓はもとより食事までご馳走になったものだが、お世話をされる奥さんには迷惑至極のことだったにちがいない。しかし、乙羽信子を思わせる美人の奥さんはいつもにこやかな笑顔で私達を迎えいただいたので、それに甘えてついつい長居したことである。

昭和四十六年、私は東京へ転勤したが、それからも飯塚へ帰るたびごとに、おうかがいしてはいろいろと相談に乗っていただいたことであった。その後風の便りにご病気療養中とうかがったことであったが、お見舞いにうかがうことも叶わぬまま、五十五年春悲しい知らせを受け取った。仕事の都合で、葬儀にも参列できず、悔いが残ったことであった。

その年の暮れには太賀吉会長も、あの世へ旅立たれたが、私にはあいついで両親(ふたおや)を亡くした思いがしたことであった。 (平成二年)

ramtha / 2011年3月15日