筋筋膜性疼痛症候群・トリガーポイント施術 ラムサグループ

第四十話「ガラスの裏切り」

先頃久方ぶりに東京麻生OB会に出席した。常連の顔ぷれの他に、小林忠雄さん、福沢(旧姓川波)真智子さんと言った何十年ぶりに顔を見る人の参加もあった。宴なかばに吉川会長以下、それぞれ自己紹介と近況報告をすることとなったが、私の番になり、立ち上がったところ。

「会場が狭いのだから声のボリュームを落として。」
と元組合長の戸塚君から野次が飛び、まだ一言も喋らぬうちに爆笑を誘ってしまった。どうも私の大声は、ことほど左様に有名なことであるらしい。

私は幼いころから気が弱く、学校で先生に当てられても、蚊の鳴くような声しか出ず、「もっと大きな声ではっきり答えなさい。」とよく注意されたものである。そんな私が何時から大声になってしまったのだろう。

前にも書いたことだが、中学三年生の頃から、こんな弱気で引き込み思案なことでは、これからの人生をまともに暮らしては行けないのではないか。なんとか自分の性格を改造しなければと思うようになった。

それからは教室でも積極的に手を挙げ、先生の質問にも応える努力をしたものである。福岡高校に入学してからは、ことさらに最も苦手な弁論部に入り、多数の聴衆を前に、声を大にして自分の意見を述べることに努めた。どうもその頃から日常会話でも不必要な大声を発するようになったものらしい。しかし、三つ児の魂百までとか言われるように、目的とした性格改造の方は、表面的なものにとどまり、弱気な本質は変わらず、晩年に至るにつれて、本卦還りと言うのであろうか、すっかり昔のはにかみ屋に戻ってしまった。にも拘らず、音声だけは拡大のしっ放しになり、肺結核を患ったときのストレプトマイシンの副作用による、いわゆるマイシン聾のせいもあって、自分では無意識のうちに、周囲にすくなからぬ騒音公害を及ぼしているようである。

昔、麻生本社の労務課にいたとき、労務課の部屋の裏手に、小さな中庭を挟んでトイレがあったが、トイレから帰ってきた神垣君に
「佐藤さんの声はトイレの中まで聞こえていますよ。機密の話などするときは注意してくださいよ。」
と言われたことがある。

そうしたこともあったので、昭和三十二年の秋、熊谷部長から別室に呼ばれ、文書課への転勤について意向打診があったときも、一瞬戸惑ったことであった。いままで籍を置いていた労務課では、小林課長も木庭さんも、どちらかと言えば音量の大きい方で、毎日あたりかまわぬ大声で侃々諤々の議論をたたかわしていたものである。

それに対して文書課は、秘書課とともに重役室とガラス戸一枚で隣合わせの部屋にあり、機密を要する職員人事を取り扱う職掌柄、無口な原田課長以下課員一同、終日机に向かって黙々と事務を執っている、というような職場であった。だから労働組合を相手に、時に卓を叩いて団体交渉をする労務課の雰囲気に長年育ってきた私には、いつもひっそりとした文書課の空気は、馴染み難い感じがあったのだ。

しかし、当時の私は、一年半の結核療養から職場復帰したものの、私の長欠中の代行者として深町純亮君が補充されており、労務課では宙に浮いた存在となっていた。
また、このあたりで新しい仕事に取り組むことにも興味があったので、快くお受けすることとした。

当時の文書課は、原田富平さんが文書課長兼秘書課長、秘書課には社長秘書の増田五郎さん、本家執事の松田清市さんの他、森本妙子さん、石田宮子さん等がおり、文書課には山本義夫、太田林之助の両君と広津ウメ女史がいた。山本さんは四十代後半、太田君は私より二才年上の三十代後半、二人とも謹厳実直が背広を着たような人柄であった。広津女史は、大分女子師範出の才媛で、たしか山本さんと同年位だったと思うが、往年の入江たか子を想わせるような上品な独身美人であったから、ずいぶん若く見えたことであった。そんな職場に飛び込んだ私は、なんだか場違いなところに来た思いがしたものである。
郷に入れば郷に従え。生来がさつな私だが、こうした文書課の雰囲気に極力馴染むよう努力したつもりである。

しかし、人間三十を越えてからは、身に染んだものは一朝一夕に変わるものではない。ことに音量については、ガラス一枚で重役室と隣合わせということもあって、ずいぶん気をつけたつもりだが、ともすると、つい地声が出て広津女史にしばしば咎められたことである。

そんなある日、ふとガラス越しに隣の重役室を見ると、吉鹿常務と柴田常務が談笑されている姿が見られた。どうも仕事には関係のない雑談のようである。よほど面白い話題なのか、お二人は時に相好を崩すほどの笑顔をされて話されている。だから機密を要するような話ではなく、声をひそめて話されているとも想えない。それなのにお二人の話声は、ちっとも聞こえてこない。なるほど、ガラス一枚の遮音効果は大したものだ。これなら今まで重役室へ自分の声が届くのを恐れていたのは、全くの徒労ではないかと想い至った。

その後太田君の突然の死去があり、代わりに赤坂炭坑労務課から、かねて気心の知れた野見山芳久君が来るに及んで、私の音量はブレーキを失い、元の状態に戻ってしまった。今から想えば、若気の至り、重役方を批判するような、ずいぶん失礼な言辞も、遠慮会釈なく弄していたようだ。それもこれも、ガラス一枚の遮音効果に、アクラをかいてのことであった。

と、ある日、つね日ごろ業界の会議や出張などで、席の温まる間もない麻生太三郎専務が、珍しく重役室に姿を見せられ、出張先での出来事であろうか、身振り手振りよろしく、笑い声を交えて、両常務に話されている。

ところがなんと、その話はガラス越しに、こちらに箇抜けではないか。私は一瞬心臓が止まるほどビックリした。

そんな筈はない。重役室と文書課の間のドアが開いているのではないかと思って、そちらを見たが、ドアはちゃんと閉まっている。とすれば、先頃の両常務の話声が聞こえなかったのは何故だ。考えてみるまでもない。お二人は、いつもことさらに静かに話され、その声はどうかすると、近くにいても耳をすませて聞かなければ、聞こえないほどなのだ。それに比べ、太三郎専務は、抗州湾上陸作戦に参加された元陸軍大尉、その上、減法明朗活達なお人柄、博多弁の大声、ガラス一枚の遮音効果などものの数ではないようだ。だとすれば、太三郎専務ほどではないにしても、私の音量も相当なものだ。一枚のガラスが守ってくれている筈はない。思いがそこに及んだとき、私は顔から火の出る思いをしたことであった。

たった一枚のガラスの遮音効果をあてにして、いままで何という愚かなことを喋ったことであろう。口は災いの元と、いまさらながら思い知らされたことであったが、責めを他に転嫁する情けない根性は、重役室との間に、今日もそしらぬ表情で立っている裏切り者のガラスをつくづく憎らしく思ったことであった。
(平成二年)

ramtha / 2011年3月13日