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「十七、悪筆の嘆き」

私は連隊本部事務室の功績係に配置された。功績係は船越准尉を長とし、松尾伍長、吉積兵長と当時一等兵であった私の四人であったが、連隊全員の功績名簿の保管、整理、記録がその主な業務で、専ら字を書き書類を整理する毎日であった。

(注)功績名簿とは将校以下、下士官・兵卒に至るまでの兵役従事者一人一人の軍務従事中の成績表で、所属部隊ごとに保管記録され、転属したときは、その転属先の部隊へ転送することとなっていた。

船越准尉は現役志願から准尉まで昇進した職業軍人であったが、松尾伍長は商業学校を出ており、銀行員が本職であった。また吉積兵長は中央大学出で、サラリーマンの応召者であった。

いずれも事務室勤務となるだけに、なかなかの能筆家であった。その中で生来悪筆の私は、毎日肩身の狭い思いをしながら仕事をしなければならなかった。しかし、船越准尉をはじめ、みんな温厚な人柄で、私のような者を、よくかばい、可愛がって頂いた。

ある日、例によって蚯蚓(みみず)が這いずり回ったような字を書いていると、さすがに見るに見兼ねてか、松尾伍長が
「佐藤さん、(軍隊では、下級者に対しては呼び捨てなのだが、彼は事務室の中では下級者にも「さん」付けで呼んでいた)字の上手下手は、ある程度天性のもので、どうしょうもないが、事務での字は芸術ではないから、上手である必要はない。誰が見ても、はっきり分かることが肝心だ。だから字を続けずに、一字一字楷書で書くようにしなさい。下手な人ほど宇を崩して書きたがるが、誤魔化していては上達できないよ」
と諭された。
とかく変な崩し方で、なんとか下手な字を誤魔化そうとして居た私は、穴に入りたいような恥ずかしい思いをしたが、まことに有り難い教訓であった。
それからは多少時間がかかっても、楷書で書くように努めることとした。

また、それを脇で聞いていた吉積兵長は、後で二人きりになった時、松尾伍長の指摘で私が余程落ち込んでいると思ったのか、
「佐藤君よ(彼は君付けで呼んでくれていた)松尾班長の言われる通りだ。楷書で書くようにしたら君もきっと上手になるよ」と励ましてくれるとともに「上手な人の字を見ることも勉強になるものだ。幸い我々には松尾班長という立派な手本が身近にあるのだから」
と教えてくれた。なるほどそう言われて班長の字を見てみると、今まで自分が丁寧に書いても、不恰好な形にしかならない字を、実に美しく釣り合いの取れた字にしている。

自分の字と比べてみると、長く伸ばすべきところ、一画、一画の間隔の取り方、曲線の曲げ具合、撥ねるべきところの撥ね具合などなど、ずいぶん違いがあることが分かって来た。

しかし長年にわたって凝り固まった悪筆は一朝一夕に直る筈もなく、戦後、麻生に入社してからも、常に綺麗な字を書くまわりの人が羨ましくてならなかった。ことに吉隈炭鉱の労務係のときは、係長の小樋さんや、
事務を共にした久保純男君などの筆跡は、まことに見事なものであった。

その頃久保君が一日病気欠勤した日に、私が彼の事務を代行し、日頃彼が記入している帳簿に、私の拙い字で記入したことがある。私としてみれば、見事な彼の筆跡が並ぶ横に記入するのだから、精一杯ていねいに書いたつもりである。しかし字の優劣は覆いがたく、誰が見ても見苦しい一ページであることは明白であった。

翌日出勤して来た彼は、その帳簿をひろげた途端、無言のままピリピリとそのページを破り捨て、一ページまるまる書き直したことであった。

私は日頃から、神経質なまでに美意識の強い彼の性格を承知して居たので、腹が立つより、それほどまでに筆跡に厳しい彼の感覚に心密かに感服したことであった。

「至愚は移すべからず」と孔子も宣(のたま)われたとか聞くが、悪筆もまた移すべからずで、私の字は未だに拙劣の域を出ないが、一生懸命ていねいに書けば、なんとか人様に読んで頂ける字が書けるようになったのは私を諭し、励まして頂いた松尾班長をはじめとする多くの方々のおかげであると、深く感謝している。

ramtha / 2015年6月13日