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「二十三、枕崎台風」

戦前は気象観測所も少なく、ことに戦時中は軍による情報統制もあり、今日のような天気予報も無く、気象について、われわれは全くの無知であった。

しかし、われわれが借りた都城女学校の校舎を見ると、建物の四隅などの重要な柱には、異様に頑丈な支柱が付設されている。地元の人に、都城はしばしば台風が通過する、所謂(いわゆる)台風銀座で、この支柱は台風に備えての設備であると教えられ、初めて納得したことであった。

九月十四日の昼過ぎから雨風が強くなりはじめた。われわれは校舎の二階にある畳敷きの部屋に横たわって居たが、何人かの兵士が板切れを見つけてきて、窓枠の補強に、対角線に打ち付けたりしていた。しかし風はいよいよ激しく、遂には先ほど補強した板も窓とともに吹き飛ばされ、猛烈な風が室内に吹き込んで荒れ狂いはじめた。

そのうちに床に敷いてある畳が風に巻き上げられ反対側の窓を突き破って飛び出す。
「危ない!毛布を被って下に降りろ」と言う叫び声で、照明も無い暗闇の中、階段の手摺に掴まりながら一階に降りた。

風は益々激しく、一階の窓も室内を飛び回り、ガラスの破片や、室内の備品と覚しきものも飛散して危険きわまりない。さすが頑丈な造りの校舎も軋(きし)む音がして揺れている。そのときは考える余裕も無かったが、瞬間最大風速は百メートル近くもあったのではないか。後に知ったことだが、あれは歴史に名を残す枕崎台風であったのだ。

危険を感じて床下に潜る者も居たが、私はいっそ運動場のあちこちに掘られたままの蛸壷式防空壕が安全ではないかと思い、手探りで、校舎からやや離れた防空壕に身を潜めることとした。

防空壕の深さは身を屈めれば、頭までなんとか地上を吹き荒れる風から逃れ得る程であったから、毛布を被って身を守ることとした。しかし、雨を防ぐ術(すべ)は無い。壕の中には先はどからの雨で水が溜まっている。

逃げ込む時、水のことまでは気が回らなかったが、今更どうしょうもない。腰まで水に漬かったまま台風の通り過ぎるのを待った。

雨量はそれほどでもなかったが、風は一晩中吹き荒れ、夜明けとともにようやく和らぎ、昼過ぎには雨風ともに治まってほっとした。

防空壕から出てみると、校庭一面に吹き飛ばされた瓦や窓枠、無数の木の枝など散乱して居る。すぐ近くの都城駅の屋根は吹き飛ばされ、引込線に置かれていた貨物列車は何輌も横倒しとなり、前夜の台風の凄まじさを物語っていた。

ramtha / 2015年6月6日