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「二十五、軍保管物資の処分」

終戦時、部隊が保有していた兵器は、全て一ヵ所に集積され、後日占領軍に引き渡された筈であるが、毛布や下着などの衣料品や米・乾パン・缶詰などの食料品、さらには鋏・縫針・糸・軍手・軍靴などもろもろの物資がずいぶんあった。

誰の指示でなされたのか分からないが、部隊解散時に全員に分け与えられることとなった。私にも、軍用編み上げ靴、乾パン、缶詰、靴下、下着など毛布一枚に包み切れないほど与えられた。

私たちは米軍と銃火を交えることも無く、国を守る務めも果たしえず、敗残兵として故郷に帰る身であるが、それにも拘らず、これらの物資を受け取っていいのだろうか。私は多少の後ろめたさを感じたものの、全員が受け取っている中では、さしたる罪悪感もなく受け取っていた。

しかし、今になって思えば、あれは国有財産の集団的略取であったと思わざるを得ない。 おそらく私の所属した部隊に限らず、終戦時の本土防衛部隊では、いずこも同じようなことが行なわれていたものと想われる。

考えてみれば、当時の交通事情では、国に返還するとしても、あれだけの物資を然るべき返納場所に輸送することも、不可能ではあったに違いない。またそれを公平に国民に分与することも、当時の状況としては理想論に過ぎなかったことだろう。

しかし部隊が所属隊員だけで処分することなく、周辺自治体を通じて、民間人の生活を潤すようなことぐらいは出来たのではないか、とも思ったりする。

だが、当時の世相を思い起こしてみれば、地方自治体も、そんな人手を要する作業を処理する余裕もなかっただろうし、何年間も物資不足の生活を強いられて来た住民が互いに争うことなく公平に分け合ったとは、とても想われない。むしろ将来に禍根を残す紛争を巻き起こしたに違いない。

今日の人の中には、「東日本大震災の被害者達の秩序ある行動は、世界の賞賛を浴びたではないか。あれが日本人の本質であり、そんな争いなどする筈が無い」と反論する方も居られるかも知れない。

しかし、東日本大震災は、長年続いた平和で豊かな環境の中で発生した事件で、終戦時の混乱期と同列に見ることはできない。「衣食足りて礼節を知る」ではないが、人間の倫理観は、戦争と貧困に対しては如何に脆(もろ)いものであるかを、我々の世代は身をもって体験させられたことである。私を含めて戦時下の軍隊という閉鎖社会では、人間としての倫理的思考が麻痺してしまっていたのだと、今になって反省している。

なお顧みると、昭和初期の軍国主義体制というのは、軍が国を支配し、国の財産は軍人が私物化していることを当然のこととする風潮があり、軍の所有物のうち兵器は占領軍に引き渡さなければならないが、その他の物資は自分たちで処分することに何の違和感もなく、国に返還するとか、民間人と分け合うなどという発想は全く無かったというのが真相であったに違いない。

余談となるが、私が大学生のとき、小倉の電車通りで小倉駅に向かう路線バスを待って居たら、中学の同級生で陸士出の将校が通りかかり、大通を走るトラックに手を上げて停止させ、私を小倉駅まで送れと命じている。

トラックの運転手にしては迷惑なことに違いないが、相手が現役将校では従うしかない。私は辞退しようとするが、彼は私をトラックの助手席に押し込み、「小倉駅に直行するのだぞ」と運転手に声をかける。やむなく私は便乗し、運転手に事情を釈明しようとするが、「いや軍人の言うことには逆らえませんから・・」と、快く駅まで送ってくれた。

世の中こんなことでは良くないとは思いながらも、当時の風潮に逆らうことなくトラックを利用する自分に、後味の悪い嫌悪感が残ったことであった。
当時の軍人の多くは、それほどに横暴であり、それを阻止すること出来ない雰囲気が世間を覆っていた。

あれは私が中学生であった昭和十年代のことであったと記憶しているが、大阪市の街角で信号を無視した陸軍兵士を警察官が派出所に連行した事件があり、陸軍省が天皇陛下の兵士を一警察官が連行するとは何事かと、内務省に抗議をしたというニュ-スを耳にした。ことの結末がどのようになったかは記憶にないが、子供心にも軍人の思い上がりではないかと感じたことは忘れ得ない。

ramtha / 2015年6月4日