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ある北国の家系

尾見家の家系記録

昭和四十八年十二月三十日に、母徹(てつ)が大分県臼杵市で亡くなった。葬儀は年明けてから行われたが、葬儀のあとで、兄が亡母の遺物を整理していたところ、その中から亡父の手になるものと思われる「家系及履歴」と題した書類が出てきた。B5判の罫紙十三枚にわたり、ペン書きされているが、まことに几帳面な楷書で記されている。

年を経て用紙は黄ばんでいるが、筐底深く保存されていたものか、少しも損傷していない。内容は七代にわたる尾見家当主の履歴を記したものであるが、文末に「昭和十一年八月 愛媛県喜多郡大洲町二於テ尾見五郎叔父上永眠セラル。家財整理ノ際、借受ケ複写ス。昭和十二年二月二十三日」と記されている。

ここで佐藤家と尾見家との関係について簡単に説明すると、佐藤家は何時の頃からか分からないが、歴代蝦夷松前藩のお抱え医師として殿様のお脈拝見を家業として禄を頂いて来たと聞いている。

一方、尾見家は同じ松前藩の江戸留守居役や函館奉行など、重臣として歴代仕えて来た家柄のようである。

松前藩の典医であった私の祖父佐藤良仲に、松前藩士尾見雄三の娘カクが嫁いで来て、良仲、カクの夫妻の次男として、私達の父善次郎が生まれたという次第である。
だから、この家系図にある尾見家というのは、私の祖母の里方ということになる。

なお、祖母の弟尾見五郎は、如何なる事情によるものか分からぬものの、幼少の頃は姉婿に当たる私の祖父佐藤良仲の許に身を寄せ、養育されたと聞いたように思う。

明治維新による廃藩置県で、松前藩の禄を離れた祖父は、函館に転居、町医者として開業したが、函館の大火により家産を失い、まだ学童にすぎなかった父善次郎は、母方の叔父尾見五郎に養育されることとなったという。

叔父(私にとっては大叔父)の五郎にしてみれば、幼少のころ世話になった佐藤家への恩返しのつもりであったのかも知れない。
当時叔父が中学校の校長をしていたので、父はその勤務先である大阪の八尾中学に学び、叔父の転勤とともに熊本へ転居、やがて熊本高等工業学校採鉱冶金科に進むこととなったものらしい。

叔父が何時妻帯したのかよく分からないが、父が叔父の家に引き取られた当初は、叔父はまだ独身であったらしく、父は男世帯の炊事、洗濯などの家事をさせられていたと言う。だから父と尾見の叔父とは、ある期間生活を共にした、いわば親子にも等しい間柄にあったもののようである。(父善次郎は佐藤家では次男でもあり、一時は尾見家の養子となる話もあったとか聞いたような気がする。)

そんなことで、叔父の葬儀にあたっては、父はなにはともあれ駆けつけて万端の世話をしたことと思われる。そして葬儀の後、叔父の遺物の整理をしている時に、見い出したのが、この「家系及略歴」ということである。

上述したようなことだから、この「家系及略歴」は、父にとっては単なる母方のもの以上の、親近感があり、こうして複写記録したものと思われる。

佐藤家の歴代の家系が残されていないので、尾見家のこの「家系及略歴」は、私にとっては祖母の里方の、いわば傍系の祖先のものだが、貴重な記録として保存し子孫に伝えるべきものと思われるので、ここに改めて書きとどめることとする。

なお、原文は漢字片仮名混じり文で、句読点も無く、今日の若い人々には、随分と読み辛い文章となっているので、カタカナはひらかなに書換え、さらに読みやすいように、適宜句読点を入れ、また必要に応じて助詞(てにをは)を挿入したり、改行するなどの手を加えた。また、年号については、西暦に換算した年数とその年の日本史上の有名な事件を括弧書きして、その時代背景を理解するための参考とした。
さらに読む人の理解の一助にと思い、私の推測を(註)として適宜挿入した。

<家 系 及 履 歴>

初代 尾見兵七基興

丹後国宮津の松平伯耆守の老臣、尾見某の次子。
元禄年中、松前矩廣に奉仕し、寛保二年(一七四二年、当時将軍徳川吉宗)歿す。

(註)これを見ると尾見家の先祖は、もと丹後の國、すなわち今日の京都府宮津市に住んでいたようである。その尾見家の次男が本家を離れ、蝦夷松前藩に仕官したのが、松前の尾見家の始まりとりつことのようである。してみれば、宮津市には、あるいは本家尾見家の子孫が今日なお現存しているのかも知れない。

宮津から松前へは、どういう縁があってのことだったのだろう。次男ではあるが、他家に養子として入ったというのではなく、本人がなんらかの才能を松前の殿様に認められて仕えることとなったものと思われる。

しかし、遠隔の地にある者が、どうして知られるようになったのか、分からない。あるいは、宮津松平藩士とはいいながら、江戸詰め藩士で、松前藩の江戸屋敷の人と交流する機会があったのかも知れない。二代目が江戸留守居役を勤めているところを見ると、どうもかねて江戸住まいであったように思われる。

いづれにしても、元禄太平の世に、他藩に新規召し抱えになるというのは、文武いずれかにそれなりの才能があったものだろう。

二代 尾見兵助全興

初代基興の長子。
松前邦廣に奉仕し、官、江戸留守居に至る。
文明七年(一七八七年、前年老中田沼意次失脚、松平定信老中筆頭となる)歿す。

三代 尾見造酒右工門正興

同藩 新井田金右工門の弟
松前資廣、道廣に奉仕し累遷江戸留守居に至る。
藩主封を奥州梁川に移さるるに及んで、老年の故を以て致仕(チシ=辞任)、福山に止まり、養子武興をして君側に奉侍せしむ。
又財政の整はざるを聞き、私財を擲ち、或は他人を説き若千金を献ず。藩主及び老臣より之に答ふる書あり。

(註)二代目には男の子が無く、三代目は同じ松前藩士である新井田家から養子に迎戈られている。新井田家は国元侍であったのかも知れないが、累進して先代と同様江戸留守居役まで登り詰めている。しかし、隠居してからは蝦夷福山に住んでいるところを見ると、国元で育った人ではなかったのかと思われる。

藩の財政困難の折、献金しているところを見ると、かねて家計は豊かであったと想像ざれるが、また、他家よりの養子として、尾見家の家名を懸命に守ろうとしている姿が窺われる。

四代 尾見兵七武興

同藩 下国季武の八男
松前道廣、章廣に奉仕し、官、町吟味役より江差奉行、函館奉行に至り、天保十一年(一八四〇年:前年蛮社の獄で渡辺華山、高野長英投獄)四十二歳にて歿す。

(註)三代目にも男の子が無く、四代目当主も同藩他家より養子を迎えている。先代まで江戸留守居役を勤めていたが、当代は専ら国元で奉行などを勤めている。
もっとも四十二歳で死亡しているところを見ると、江戸留守居役への昇進途中であったのかも知れない。先代までの履歴には死亡年齢が記されていないのに、特に死亡年齢が記されているのは、早逝を惜しんでのことかとも思われる。

五代 尾見與喜蔵興平

同藩 古田栄四郎の次子。
松前良廣、昌廣に奉仕し、官、納戸役より 様似(さまに、地名)頭役に至りて、同所に於て弘化三年(一八四六年、イギリス、フランス、アメリカの船しきりに来航)二十一歳にて歿す。

(註)四代目にも男の子が無く、養子を迎えている。
ところが五代目は様似頭役勤務中に、二十一歳の若さで亡くなっている。
様似(さまに)は襟裳岬の北西、太平洋沿岸の港町である。現地のアイヌ人を使って、漁業が行われ、それによる収穫は、松前藩の重要な収入源であったと思われる。
当時の現地がいかに未開の地で、防寒設備らしきものも無く、生活環境もことさら厳しかったことは容易に想像されるところである。
しかも、代々要職を勤めてきた尾見家の当主として、その重任を全うするには、五代目はあまりにも若く、耐え難いものがあったと思われる。苛酷な自然条件の中での心労が、彼の死を早めたのではないか。今日で言う過労死であったに違いない。後出する彼の死後の家督相続の経緯を見ると、そのあたりのことが窺われる気がする。

六代 尾見雄三允興

信州高遠藩主内藤家の家臣、山田政保の長子。
松前昌廣、崇廣、徳廣、脩廣に奉仕す。
幼名を山田惣次郎と云ふ。

文政八年(一八二五年、外国船打ち払い令出される)江戸新宿の内藤藩邸に生る。
学を藩儒山下某、富永某及び松平讃岐守の家臣、赤井某等に受く。
十一歳にして江戸の剣客斎藤俑九郎の門に入り、十八歳に至り目録を受け、二十一歳にして挙げられて塾頭となり、後二年を経て師子新太郎(後父襲名)及び細田泰一郎と東北諸州を漫遊し、松前に至りて還える。帰後、剣道の免許を得たり。

斎藤塾にあるや江川太郎左工門等に従い、倚了高島流の砲術を学ぶ。
嘉永元年(一八四八年、翌年孝明天皇即位)故ありて高遠藩を去り、松前藩家臣尾見家を継ぐ。

中の間近習役を命ぜられ、一番隊に編入せらる。

(註)私達の曾祖父に当たる六代目は、もと信州高遠藩の江戸詰め藩士山田家の長男として、今の東京都新宿で生まれ、江戸で育ったチャキチャキの江戸っ子であったようだ。だから、高遠藩士の家に生まれたものの、信州高遠に住んだことはなく、馴染みは無かったことと思わ
れる。

斎藤弥九郎門下の塾頭をつとめたり、江川太郎左工門に砲術を学んでいることから、文武両道に秀でた秀才であったことが窺われる。

略歴の記載によれば、高遠藩、山田家の長男であったとなっているが、幼名が「惣次郎」となっているところを見れば、正しくは次男であったのかも知れない。
いずれにしても、全然縁もゆかりも無い松前藩の尾見家に入ったいきさつについては、単に『故ありて』と記されているだけで、分からないが、斎藤門下の秀才として江戸ではその名が知られていて、松前藩主の嘱望により、尾見家を継いだのではないかと想像される。

前に、師匠の息子斎藤新太郎等と諸国漫遊と称し、松前を訪れているが、これも松前藩主の依頼を受けた師匠斎藤弥九郎の推挙があり、国元重役の面接の意を含んでのことであったのではないかとも考えられる。

松前藩主としては、若くして様似の地で、殉職にも等しい死を遂げた五代目を憐れみ、名門尾見家の再興を計るとともに、山田惣次郎(後の尾見雄三)という人材を得ることを望んでのことではなかったかと思われる。

当時、北海道周辺には、魯人(ロシヤ人)が出没し、海防のことが松前藩の急務となっていたことと思われる時、斎藤塾の塾頭であり、高島流の砲術の心得のある惣次郎が、松前藩主の熱望する人材であったことは、想像に難くない。

前述したように、尾見家では五代目当主が二十一歳の若さで客死している。嗣子の幹はまだ赤子であったに違いない。そのため、その後二年間は当主が無く、若い未亡人が家を守っていたものと思われる。家名廃絶とならなかったのは、五代目の殉職に等しい死を遂げた忠誠と、尾見家歴代の功績が認められてのことと思われる。

尾見家再興のことは、親戚一同の願いであったに違いないが、松前藩主もまたかねて気にかけておられたものと思われる。そこに江戸から斎藤塾の俊才山田惣次郎が藩主のお声がかりで、入籍してきたのではなかろうか。

だから、あるいは親戚一同としては、気心の知れた国元の藩士の中から、入り婿を迎えることを望んでいたのかも知れない。しかし、殿さまのお声がかりでは。承伏のほかなかったことと思われる。

経歴に記されてはいないが、惣次郎は五代目未亡人と結婚し、六代目当主となったと言うことだろう。しかし、親戚一同としては、入り婿の六代目は尾見家存続のためのいわばピンチヒヅターであり、いずれ五代目の正嫡である幹が成人の暁は七代目当主となることで、納得したものと思われる。そのことは後出の七代目幹興譲の略歴に、六代目の相続と同時(嘉永元年)に、七代目相続人となったことが明記されていることから窺われる。

将来生まれるであろう入り婿(六代目)の実子が、家督を継ぐことのないよう、親族会議で取り決めたということだろう。

嘉永四年(一八五一年、ジョン万次郎帰国)根室頭役として在勤すること年餘。
同六年(一八五三年、ベリー浦賀に入港)納戸役を命ぜらる。
同年九月魯西亜(ロシア)人樺太島に一砦を構え異志を形(あらわ)すの飛報あり。即日一番隊監察の職を奉じ、従士六十余名を卒(ひき)い、昼夜程を兼ね、十月三日漸く宗谷に達す。然れども海上すでに凍結し、渡るべからず。遺憾極まるも為す能はずして翌春解氷の期を待つ。

三月五日結氷稍(やや)解く。即ち宗谷を発し、久春古丹に赴く。結氷を渡り到れば、幕吏すでに魯使に接し、虜砦を毀(こぼ)つを約す。即ち邦人を衛り留まる月餘。
五月虜ついに砦を毀(こぼ)つて去る。よって福山に還る。帰後功を以て監察に任ぜらる。

(註)前述したように、六代目雄三は、彼の剣技並びに砲術など、その軍事的才能を買われて、松前藩によばれていたことが、。松前藩に仕えて僅か三年(弱冠二六歳)で根室頭役に登用され、また南下するロシヤ人排除のため、樺太遠征に起用されていることからも窺われる。

なお、久春古丹(クシュンコタン)は、樺太南部の地名と思われる。

「久春古丹(クシュンコタン)は、江戸時代から明治初期にかけて用いられた樺太の地名。アイヌ語のkus-un-kotan(対岸・にある・村)に由来する。 九春古丹とも。後の大泊町楠渓町。市街地中央にある台地・神楽岡の北に位置する。 江戸時代、松前藩の穴陣屋があった。また、交易の拠点で北前船も寄港し、松前藩の出先機関として運上屋も置かれていた。 江戸時代末、度々ロシア人の襲撃に遭ったが、明治時代に入って一時期樺太開拓使が置かれた。日露戦争後は樺太民政署を経て樺太庁が置かれたが、樺太庁は後に豊原に移転した。(Wikipediaより)」

安政三年(一八五六年、(リス下田に着任)十月町吟味役に轉ず。
同四年(一八五七年、吉田松陰松下村塾を開く)五月また羽州尾花沢(山形県尾花沢鉱山)奉行に轉じ、ついで東根(ひがしね、山形県東根)奉行を兼ぬ。任にあるや罹災窮乏民を撫育し、道路を修め荒蕪を拓き、屡(しばしば)賞を藩主に受く。

(註)松前藩士が出羽國尾花沢奉行となっているのは、奇異な感じがするが、松前藩の飛び地であったものか、あるいは幕府の直轄地で、その統治監理を委託されていたものかと思われる。いずれにしても、遠隔地に藩を代表する責任者として起用されているところを見ると、六代目は、単に武技に長ずるだけでなく、なかなかの器用人であったことが窺われる。

文久一二年(一八六三年、天皇諸社に壌夷祈願)勘定奉行に任ぜらる。
慶応二年(一八六六年、薩長連合成立)江差奉行に転任せらる。任地に赴くや、直に消防隊を設け、或は築港の利を説いて豪族に計り、藩主に建議する所あり。或は山林濫伐の弊を論じて山林保護法を布く等。聊(いささ)か旧政を改革する所あり。
時に勤皇、佐幕論海内に喧(かまびす)しく、奥羽諸藩物情洶々(キョウキョウ=どよめきさわぐさま)たり。

先藩主崇廣幕政に参与し、征長のこと起こるに及び、海陸惣都督たり。故に有司また多く佐幕の説に傾き、将(まさ)に奥羽諸州と同盟せんとす。
余大いに之を患(うれ)い、四方有志の士気を擢揮し、鈴木織太郎、下国東七郎、松崎多門、三上超順等と謀り、正義隊なるものを組織し、以て勤皇に従事す。

然れども藩臣勤皇正義に志す者、多くは無官の徒、大いにその運動費に苦しむ。余即(すなわ)ち金二百余両を出してその費に充て、また江差の豪族関川平四郎、益田傅左工門、村上三郎右工門及び町年寄斎藤左司馬等に計る。すなわち私財を擲(なげう)ち、以てこれを助く。

その額幾(ほと)んど二千両に及ぶ。正義の士大志を貫徹するを得たるもの。四氏実に、大いに與(あずか)りて力ありと云ふべし。
戊辰(明治元年、一八六八年)八月、織太郎等事を福山に挙ぐるや、余不意に立って赴援するを約す。
七月三十日、余遽然(キョゼン=にわかに)近郊に遠驚ありと称し、非常鐘を鳴らして諸士を集め、氏家丹宮と共に、従士九十四名を卒(ひき)いて赴き援(すく)う。大いに正義諸士の勢意を強うし、闔藩(コウハン=藩全体)の方向、ここに至って初めて定まる。功を以て執政に任ぜらる。一代寄合席格に昇級す。

(註)松前藩は京都より遙かに遠隔の地にあり、当時藩論が佐幕に傾く中で、六代目がいち早く勤皇の道を選んだのは、江戸で成人し、江川太郎左工門等当時の知識人との交流があり、入手する情報も多く、時代の趨勢に通じていたためと思われる。

藩主、余の建議により館へ移城せらるるに当りてや、福山城の鎮臺(チンダイ=部隊長)に補せらる。
福山城陥るに先だち函館留守居役安田拙三、清水谷公(官軍の鎮撫使)の篤志を奉じ来るや、諸老臣に推され、拙三と共に大坂艦に搭じて、君公を青森に迎えんとし館に赴く。

(註)「清水谷公の篤志」というのは、「榎本武揚ひきいる賊軍の勢い盛んで、小藩に過ぎない松前藩が独力では太刀打ち出来ないから、本州から官軍本体の到着するまで、一時城を明け渡して青森へ避難せよ。」ということであったのではないかと思われる。しかし、一時的にせよ、自分達の城を敵に明け渡すのは、武士の面目を失し、他人の笑いものになることで、納得させるのにはずいぶん苦労したことと思われる。もっとも、清水谷鎮撫使としては、松前藩士の生命より、優勢な賊軍へ松前藩が寝返ることを恐れての説得であったと考えられる。

当時藩議動擾衆心一ならず、一は拙三の擬使なるを唱え、城地と存亡を一にせんとし、他は勝算なきの軍に可惜(あたら)将卒を失うも家國に益なし、暫く鋒を青森に避け、官軍の援兵至るを待って、大挙賊を鏖(みなごろし)にするも未だ遅しとせずとなす。

織太郎等、前説を主張し安田父子を斬るに至る。然れども我軍遂に利あらず、藩主青森に退くや、余常に側に侍し、辛楚艱難(シンソカンナン=痛み苦しむこと)大いにその恢復(カイフク=回復)を計る。

(註)一応「勤皇」に藩論をまとめたものの、優勢な賊軍を前にしては、藩内動揺し、互いに疑心暗鬼する様子が窺われる。

後、官軍援兵来るに及び、先君の霊牌(レイハイ=位牌)を奉じ、函館方面に向う。
功を以て家格中書院上席に進めらる。尚一代準寄合席格となる。

(註)この記録を見ると、六代目が強引に藩論を勤皇に導き、官軍に味方したものの、小藩の悲しさ、賊軍に追い回されて、ずいぶん苦労したことが窺われる。それにしても、函館戦争の勝利まで、よくぞ藩主を守り通したものと思われる。やはり相当な人物であったのだろう。

即ち明治三年(一八七〇年、前年諸候を知藩事に任命する)藩制の節、権大参事心得を命ぜらる。

時是(当時)戦後民家焼失し、藩主大いに財政に苦しむ。私財家宅を献じ、耶(いささ)か之が急を救う。
又書を藩主に裁して、学生を東都に留学せしむ。

翌四年(一八七一年、廃藩置県行われる)故ありて職を辞す。
同六年(一八七三年、家禄奉還)旧主家扶(カフ=華族の家勤、会計をつかさどった者)を命ぜらる。後二年職を辞す。

(註)明治維新直後は従来の大名がそれぞれ知藩事(今日の県知事)に任命されているが、六代目は余程藩主の信頼が厚かったのだろう、新しい藩制のもとでも、要職に用いられている。また、版籍奉還の後も、短い期間ではあるが、さらに松前家の家扶をさせられている。

同十一年(一八七八年、前年西南戦争あり、この年大久保利通暗殺される)拓地開墾の目的を以て渡島國上磯郡谷好村に移住し、爾後専ら農事に従事し以て老を養う。

(附記)明治二十年函館区寳町に転住
明治三十二年二月大阪府中河内郡加美村正覚寺に移り、同三十六年八月大阪府豊能郡池田町に移る。

(註)明治二十年(一八八七年)といえば、六十二歳である。当時としてはすでに老境に入った歳である。函館に転居しているが、おそらくはそれまでの農事をやめ、実子の居る函館で老後の暮しに入ったものと思われる。

実子の五郎と一緒に暮らしていたのか、娘カクの嫁ぎ先の佐藤家に身を寄せていたものか、そのあたりのことは分からない。

明治三十二年(一八九九年)、七十四歳の時、さらに大阪府へ転居しているが、どうしてだろう。実子五郎が大阪府八尾市で中学の校長を勤めていた頃のようだから、そこで余生を送ったものと思われる。

この履歴には歿年が記されていないので、いつまで存命したのか分からない。若い頃からずいぶん鍛錬したようであるから、晩年まで矍鑠(かクジャク)としていたことと思われる。しかし、七十四歳にもなって、見知らぬ土地での暮しに、どんな思いをしたのだろうと想像すると、身につまされる思いがする。

七代目相続人 尾見幹興譲

五代尾見與喜藏興平の長男にして嘉永元年(一八四八年、翌年孝明天皇即位)故ありて尾見家七代目相続人となる。

(註)前述したように、七代目の幹興譲は、五代目の実子である。しかし五代目が二十一歳で若死にしたとき生年月日は分からぬものの、まだ赤子であったに違いない。そこで未亡人となった母が、六代目となった雄三を入り婿として迎え、再婚したものと思われる。そして幹興譲は、成人の後七代目当主となるよう定められたもののようである。だから、私達の祖母に当たるカクや、その弟五郎は、入り婿した六代目雄三の実子で、七代目幹とは異父兄弟となるものと思われる。

松前崇廣、徳廣、脩廣に奉仕す。
文久壬戌年(一八六二年、寺田屋騒動、生麦事件)五月十五日用之間次勤を命ぜらる。

(註)一八六二年に初出仕しているが、満十六歳くらいであったのではないか。当時義父(六代目)は羽州尾花沢奉行を勤めているが、松前に家族を残して単身赴任していたのかも知れない。

慶応二丙寅年(一八六六年、徳川慶喜将軍となる)
二月十二日廣間勤へ転任す。
明治元戊辰年(一八六八年)鎮撫使清水谷侍従警衛人数として士隊へ編入、戸切地陣屋詰、官、斥候使番専任。
同年九月十一日五稜郭詰、官、第二小隊司令官被仰付(おおせつけらる)
明治元年皇政復古且奥羽同盟に際し、賊徒膽振國室蘭郡室蘭へ渡航せし旨飛報あり。「賊将榎本等品川海を脱し、石巻港に在り。九月仙台、會津藩すでに降り、大鳥圭介等兵二千五百人を以て来たり投ずるに由り、これと相合して鷲木港に轉じ、将(まさ)に館を奪略せんとす云々。」
この時に当り官軍の函館に在る者は、佐竹、大野、津軽、福山、松前等の兵にして、その数僅かに二百人。賊軍の来襲を聞き、峠下、七飯、藤山、大野、文月等の各砦を分守するに及んで、諸隊編成に際し、戸切地陣家詰宮脇備頭心得に補せらる。

於之乎賊軍突然峠下村を襲う。余奮然蹶起進軍の 一列に加はらんことを請願し、裁可を得て第一進軍に編入せらる。官、第一小隊半隊司令官を被仰付(おおせつけらる)。

ついで大野村において、七離七合奮激突戦すと雖(いえど)も賊勢漸次増加、我軍援兵なきを以て遂に利あらずして五稜郭へ引揚ぐ。
此の時既に鎮撫使青森へ陣を移されたるに依り、官軍一同該所へ引揚ぐるに至りて、余また該陣にありて常に鎮撫使の指揮を俟つ。
陣務整頓ここに至りて福山城へ帰任命ぜらるるにより、藩士一同整然隊伍を連ね帰航せり。

同年同月賊軍又福山城を来襲するに及んで、及部、松館の両役苦戦を遂げ、賊徒二名を銃殺して城中に入り、城内に於てまた必死の苦戦を為すと雖も利あらず、福山城陥るに及んで、館城へ引揚げ、賊軍又館城を襲はんとして、塁砦に迫る。我藩す乃(すなわ)ち城門を開き、喊吶銃砲小銃を乱発す。而して賊軍は険を蹟(こ)え来れるを以て、大砲を携(たずさ)ふる能はず、連(しき)りに小銃を発射す。ついで賊兵挺進門を排し、全軍門内に闖入(チンニュウ)す。官軍(我藩)力拒接戦すれども、遂に大に敗れ、賊軍全く塁を奪い。

更に本道より進む賊の別軍また此(これ)に会し、遂に兵を併せ熊石に向かう。
ここに至て藩主館城を退くに及んで供奉の数に加へらる。よって熊石村支関内に到る。
ここにおいて藩主乗船するに及んで、側に侍仕することを命ぜらる。然れども、如何せん小船のため船狭隘にして多衆を容るべからず。これが人員を減ぜんことを船長より申し出るにより、本道に潜伏可致(いたすべき)旨(むね)達せらる。

これにより熊石村及江差間に潜伏し、当時賊軍の挙動を探偵し、幸に時機を得て青森に航し、藩主の陣中に到り、再び征討人数に加へらる。

明治二年三月朝廷更に征討軍を召集して海陸並び進みて賊軍を攻む。その陸軍は親兵及び薩州、長州、肥後、備前、水戸、藤堂、久留米、福山、弘前、大野、黒石の諸藩隊。兵凡そ六千五百人。我藩において隊伍編成に際し、余非常抜擢を被り、第五小隊に編入、即時官、斥候使番専任。
同年四月十五日官軍各藩と共に檜山郡江差へ渡航し、該方面より福山を経て、上磯郡釜谷村に滞陣中危険を犯し、賊軍の挙動を探り、三ツ石村或は当別村方面へは数回の斥候、異常の功を奏したり。

同年同月二十九日同郡茂辺地村字矢不来野に於て、猛烈慘怛たる苦戦を遂げ、大勝利あり。
同年五月二日同郡字七重浜に於て苦戦、利あらずして有川村に引揚ぐ。
同年同月十二日桔梗野に於て合戦、頗(すこぶ)る激烈、弾丸驟雨の如く注ぐと雖も、必死を極め遂に大いに利あり。

同年同月十八日賊徒降伏するに及んで同二十二日函館へ引揚げとなる。
同年同月二十三日賊軍鎮撫帰順に付き凱旋復城することを達せられたり。

(註)七代目幹興譲は、明治元年に二十二歳くらいであったと思われる。青春の真っ盛りを戦火の中で過ごしている。錦の御旗を背にしてとは言いながら、質量ともに優勢な賊軍を敵に、悪戦苦闘の連続で、読むだけで胸の痛む思いである。

高名な義父(六代目)に負けじと、精一杯背伸びしている姿が思われてならない。

同年、松前脩廣館藩知事の命を蒙むるに際し、右戦功に依り左記の辞令書を受く。

尾見 幹

『客冬大野より松城柱戦迄前後五度之苦戦を経、爾後決然慕君の丹心を表し、殊に今夏矢不来大捷より賊徒降伏迄終始五度之軍労候條仍為御賞永世上席被仰付且五拾石加賜』

己十二月      印

明治十一年拓地開墾の目的を以て、渡島國上磯郡三好村に移住し、爾後専ら農事に従事し居る処、同村民一同の依頼に応じ、同村村用係を命ぜらるることを承諾し、引続き官庁に奉職し、別紙履歴書の如く勤務し居れり矣。

右之通     明治二十四年

明治二十三年十一月中東京大学長より旧藩士の履歴書入用の趣を以て正五位松前惰廣公へ依頼となるに據り、旧藩士一同各自に履歴書差し出したる正本なり。
旧 館 藩
尾 見 氏

昭和十一年八月愛媛県喜多郡大洲町に於て尾見五郎叔父上永眠せらる。家財整理の際、借り受け複写す。  昭和十二年二月二十三日  (佐藤善次郎)

以上が「尾見家の家系及び履歴」の全容である。整理してなお、地名など、その所在が分からないものも少なくない。また折を見て調べてみたいし、出来れば祖先の足跡を訪ねて、縁故の地に立ってみたい気がする。

平成十年十二月三十一日 佐藤信良 記す

ramtha / 2017年8月4日