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「第一話」 ある謎の死

私は昭和二十四年から麻生産業の本社労務課に勤務し、二十八年からは課長代理として労務管理施策の立案、労働組合との団体交渉などに携わっていた。ところが三十年秋、かねて前科のあった肺結核を再発し、一年半の療養生活を余儀なくされた。
その間、三十一年四月には肺葉切除手術を受けたが、手術時のショックから急性肺炎を併発したため術後回復が遅れ、三十二年三月、ようやく職場復帰することができた。
しかし、私が病気休職している間に、私の代役として深町純亮君が芳雄製工所から補充されていたので、私は復職したものの労務課では宙に浮いた形となり、暫くは病後のアフターケアを兼ねて、ぶらぶら勤務をさせてもらっていた。そしてその年の十一月、文書課長代理への転勤辞令を頂いた。
わが社の文書課は、職員人事と重役秘書を取り扱うセクションで、重役室の隣に位置し、四周ガラス窓で他の部課とは隔離された部屋にいた。また、人事などの機密事項に接するので、他の職場と異なり課員全員が非組合員とされていた。そんなこともあって、一般社員からは、煙たがられる存在で、口の悪い社員からは「金魚鉢」などと陰口されていたようだ。
当時の文書課は、口の重いトンペイさんこと原田富平課長の下に、山本義夫、織田森之介(仮名)、広津うめさんの三人が人事事務を担当、増田五郎(課長代理)さんが社長秘書、松田清市(課長代理)さんと木村祐四郎さんが本家の仕事をされていた。
また重役室のお世話は森本妙子さんが、受発信事務は石田宮子さんともう一人の女性(名前は忘れてしまったが)がしていた。
社長秘書の増田さんは社長のお供をして上京していることが多く、松田さんと木村さんは時折事務連絡に顔を出すくらいで、定位置は本家事務室であったから、常時文書課で執務しているのは、課長以下私を含めて総勢八人であった。
今まで勤務していた労働部労務課も同じくらいの人員であったのだが、そこでは労働組合の幹部や現場の労務課長などがしばしば出入りし、また仕事の性質上、お互いに侃々諤々(かんかんがくがく)、口角泡を飛ばして議論するなど、まことに賑やかな職場であった。
それに対して、文書課は極端に寡黙なトンペイさんをはじめ、皆さん言葉少なく、いつも机に向かって黙々と事務処理をしており、なんとなく底冷えを感じるような静かな職場であった。だから、当初は場違いな所に身を置いた感じで、居心地が悪く、退社のベルが鳴ると、両手を差し上げて背伸びをしたくなったものである
そんな職場にも漸く慣れてきた翌年二月、原田課長が珍しく長い休暇をとって関西旅行に出かけられた。故郷出雲におられるご母堂のお供をする孝養旅行のようであった。
後事を私に託されてトンペイさんは旅立たれたが、例年の春闘にも未だ日にちのあることで、留守を預かることになった私も別段のことは無かろうと思っていた
その課長が留守のある日、部下の織田君が私を別室に呼び出し、他の部署へ転勤させて貰いたいと言う。新任の課長代理に過ぎない私に、何故申し出たのか奇異な感じはしたが、とりあえずその理由を尋ねてみた。しかし、自分の能力では文書課の仕事について行けないなどと、要領を得ない応えしか返ってこない。
仕方ないので、「そう言う事は課長が決められる事で、私にはどうにもなることではない。課長が旅行から帰って来られたら貴方の希望を取り次ぐので・・・」と返事し、彼も「なにぶん宜しくお願いします。」と大人しく引き下がった。
その翌朝、彼はいつものように出社してきたが、頭が痛いのでと断って飯塚病院へ受診に行った。しばらくして戻って来たので、診察の結果を尋ねたら、単なる風邪だと言う事で、引き出しから書類を出していつものように仕事を始めた。
しかし、なんとなく普段とは様子が違うようである向かい合って執務する山本君や隣の広津女史とも殆ど会話すること無く、よそよそしいのは何時ものことであるが、今日は時折仕事の手を休め、天井を仰いでため息を漏らしたりしている。
昼休みのベルが鳴ると、すくっと立ち上がり、暫く天井の一角を睨むポーズをしていたが、「どうも具合が悪いので早退させて下さい。」と言う。
私も「早く帰って休んだが良いだろう。」と許可したが、その時も彼の挙動に、なんとも説明が出来ない違和感を感じたことであった。
当時私は旌忠公園下の社宅に住んで居たが、翌朝まだ寝床にいるときに、織田君と同じ広畑社宅に住む芳雄製工所勤務の城戸君が訪ねて来た。彼の話では、織田君は昨日帰宅してないと言う。彼は織田君の奥さんに頼まれて、昨日の様子を私に尋ねて来たのである
彼の話を聞いたとき、一瞬愕然としたものの、織田君にはもう会えないような気がしたのはどうしてだろう。
とにかく昨日織田君が早退するまでの様子を話して聞かせたが、彼が家出をするなど考えられないことで、私には思い当たることは無いと説明した。今一度心当たりを探してみましょう、城戸君はあたふたと帰って行った。
その日は少し早めに出社してみたが、やはり織田君は出社していない。職場ではまだ誰も事情を知らないようで「やはり具合が悪いのでしょうか、まだ連絡はありませんが、織田さんはお休みのようです。」と話している。考えのあってのことでは無かったが、私は彼の行方が分からなくなっていることを、皆に話すのは差し控えていた。
そのうちに松田さんが現れたので、別室に呼んで昨日からの事情を説明し、織田君の捜索をお願いした。
気にはなりながらも、課長が不在の時、席を空けるわけにもいかず、落ち着かない時間を過ごしていたところ、昼過ぎになって、柏の森の山林で縊死している織田君が発見されたと知らせがあったもう彼とは会えないと感じた今朝の予感はこれだったのかと思われた。
課長不在の時、しかも部下の異常な急死で、未熟な私は戸惑ってしまった。葬儀は城戸君をはじめ隣組の皆さんにお世話願うとしても、職場の同僚として知らぬ顔は出来ない。しかし、男性は私と山本義夫君の二人というのではどうしようもない。またまた先輩の松田さんにそちらの応援をお願いした。旅行中の原田課長には電報で知らせたが、折角の親孝行の旅は予定通り続けられるようにと付け加えた。
何はともあれ、遺体を木から下ろして自宅まで運ばねばならない。気持ちの良い作業ではないが、快く引き受けてくれた城戸君はじめ皆さんには、つくづく頭の下がる思いであった。
なお、織田君には幼稚園に通う二人のお嬢さんがいたが、遺体を運び込む光景が、その子ども達の目に触れないように、その間子ども達を城戸君宅で預かるなど、心遣いがされていたようだ。
織田家はたしか真宗の信徒で、城戸君はじめ皆さんが仏式の葬儀準備を進めていたが、織田君の奥さんはカトリックの信者であったようで、お通夜にはお坊さんが枕経をあげているところに神父さんが現れ、世話役の城戸君が困惑する一幕もあった。
遺体収容のとき発見された遺書には、奥さんへ子どもの養育を依頼する言葉が短く記されているだけだった。突然の夫の死に出会った奥さんに、すぐ遺書を手渡すのは、ショックを重ねはしないかと躊躇われた。しかし奥さんは他人には非情とも思われるほどしっかりしているように見受けられたので、検死の警察官の言葉もあり、お通夜の始まる前に、遺書は城戸君から奥さんへ手渡された。
奥さんは一見落ち着いた表情で目を通したように見受けられたが、さすがにご主人の異常な急死で緊張の極に達していたのだろう、お通夜の途中で失神すると言う騒ぎになり、その夜即刻飯塚病院に入院した。
翌日社宅での葬儀は喪主の奥さん不在のまま行われたが、霊前の遺族席には東京から駆けつけて来たという祖母に介添えされた、幼い二人の女児の姿が見られた。葬儀の後、間もなく、織田君の遺族は奥さんの実家がある東京へ引き揚げて行った。
あれから半世紀たった今日、なお織田君が自殺した理由は分からない。
当時、織田君の死因は、労組との団体交渉を事とする労務課から、紳士の集まりである文書課に乗り込んできた私の人使いの粗さに、堪えきれなかったのではないかと言う噂が一部で囁かれていた。
また、織田君は戦時中、幹部候補生出身の陸軍少尉で、近衛連隊に勤務していたとき結婚したもので、奥さんは華やかな将校夫人を夢見て嫁いだのに、終戦を境に亭主は一介の平社員となり、田舎住まいを余儀なくされたことに不満を抱えていたとか。そうした異常なまでに主人の出世を望む細君の重圧に堪えられなかったのが原因ではないかという話も耳にした。
いや、彼の兄弟には精神病で入院した者もおり、遺伝性のうつ病だったのではないかという人もあった。
しかし、それらはいずれも無責任な憶測に過ぎない。私に突きつけられたのは、仕事に自信を無くしたか、職場に苦痛を感じるかしていた部下が、私にSOSを発信しながら、私が救助の手を下ろす前に自殺したという厳然たる事実である
彼がどんな思いで妻子を残して死を選んだのか、いろいろ思いを巡らしたが、私には分かるはずもなく、しばらくは憂鬱な日々が続いた。しかし、時の流れは冷酷なもので、月日が経つとともに、私の中で彼の記憶は次第に薄れ、やがて滅多に思い出すこともなくなってしまった。
あれは何時のことだったろうか、たしか十年ばかり前のことだった。西日本ハイウエイ(株)の社長を勤める久永君から電話があり、次のような会話を交わした。
君は長年職員人事をやっていたから知っているのではないかと思うが、昔、麻生に織田森之介という人はいなかったかね。」
「ああ、それはよく知っているよ。なんで今頃そんな事を聞くのかね。」
「実は私の会社は道路公団と関係が深く、先日公団の幹部とゴルフをした。その時その人が言うのには、自分の家内の父にあたる織田森之介というのが、昔麻生産業に勤めていたらしい。しかし、家内が幼児の時病死したので、父親がどんな人柄であったのかは、娘である私の家内もよくは知らない。久永さんは麻生の出身と聞いているが、ご存知ないでしょうかと聞かれた次第だ。しかし、私は営業畑で外回りが多く、織田さんと言うのは知らないと応えたら、麻生の誰かに尋ねて欲しいという。そういう訳で君ならと思って電話したんだ。」
「そうか、詳しいことは電話では話しにくいが、彼は私より二つ年上、亡くなった時はまだ三十八才だった。お尋ねの奥さんは当時まだ幼かったので、父親の死について真相を聞かされていないのではなかろうか。今となってはそれはそのままにしておくのが良いのではないかと思う。だから随分昔の事で、人事の書類も残ってないし、詳しい事を知っている人もいないようだ。多少とも当時の事を知る人の話では、亡くなられたお父さんは、温厚、几帳面な人柄で、将来を嘱望されていたが、心筋梗塞か脳溢血ででもあったのか、突然急死されたようだった。とでも伝えてもらったら良いのではないか。」
その後、久永君が先方に伝えたかどうかは聞いていない。しかし彼の電話によって、三十年ぶりに私の記憶の底の澱みをかき回され、不快なガスがふつふつ湧いて来るのを感じたことであった。
永年心に蓋をしていた疑問、織田君の死因を今一度考えてみたが、やはり納得できる答は得られなかった。
(平成九年十二月)

ramtha / 2020年3月31日