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「第三話」 入社式

私が文書課へ移ったのは昭和三十二年の十一月であったが、翌春入社の採用予定者はすでに決定しており、それぞれ内定通知済みであった。

例年四月一日に一斉入社という事は承知していたものの、当日どんな行事が行われるのか知らなかった。そこで、文書課の古参職員である広津女史に「入社式はどうするの。」と尋ねてみた。
すると「何もしないわよ。」といとも突っ慳貪な応えが返ってきた
「えっ、何もしないっていうのはどういうことかな。去年はどうしたの。」と再度尋ねる。
「四月一日になったら、新入社員がやって来るので、重役室で辞令を渡し、後は新入社員教育を担当する企画室に引き渡すだけよ。」と言う。

終身雇用のわが国では、男にとっての就職は、女にとっての嫁入りに等しく、人生の重大な節目ではないか。それがまるで犬猫をわが家に引き入れるような安直なことでは、希望に胸を膨らませてやって来る新入社員に、いきなり冷水をかけるようなものではないか、と私が息巻いて言うと、
「今までずっとそうして来たのよ。新米のくせに生意気言わないことよ」と咎められた。

振り返ってみると、自分の場合は軍隊に入隊中に会社から留守宅へ採用辞令が送られてきたので、入社式のようなものは無かった。復員して上三緒の集合教育に参加したときも、本社重役室で辞令を頂いたものの、別段セレモニーのようなものは無かった。しかし、それは戦時中や戦後の混乱期の事で前例にはならない。

昭和三十三年当時、日本経済はようやく戦後の復興期に入り、企業によっては技術系大卒社員には支度金を支給するなど、人材確保に鎬(しのぎ)を削る有様であった。そんなご時世に、わが社の田舎の二流会社が、会社の将来を託する新入社員を犬猫扱いするとは無策も甚だしいと思われた。

広津女史の話では、昨年入社の菅君など、四月一日に出頭してきたが、玄関脇の応接間に通されたまま、終日待たされたとか。その日、課長は重役室に呼ばれるなど終日手が空かず、菅君を待たせていることを失念したものらしい。

応接間で待機させられた菅君は、昼の弁当こそ差し入れられたものの、何の沙汰も無く、退社のベルと共に社員がぞろぞろ帰宅して行くのを見て、心細くなり文書課の窓口までやってきたという。

そこで私は、広津女史が引き留めるのを振り切るようにして、課長に入社式をするよう進言した。今から思えば若気の至りで面映ゆいが、その時はずいぶん意気込んでいたようだ。

しかし、私の提案に対して課長はあまり乗り気ではないようで反応がない。広津女史をはじめ課員の目があるから、言い出した以上私も簡単には引き下がれない。ずいぶんしつこく粘ったら、課長は「吉鹿常務に話されては・・・。」と言う。

課長を飛び越して私が常務に伺いを立てるのは筋ではないが、課長としては私がなかなか承服しないので、常務の権威で諦めさせようと言うことだろう。

若い私は厚かましくも吉鹿常務をはじめ重役方の並ぶ席で、入社式を行うべきことを力説した。だが、私の予想に反して柳重役、熊谷重役など、皆さんあまり賛成ではない。私の提案は、従来の慣行を破るもので、社長がどう考えられるか、皆さん計りかねてのことと思われた。

さすがの私も諦めねばならないかと思い始めたとき、座長の吉鹿常務が「明日社長が東京からお帰りになられるので、佐藤さん、あなたから社長にお伺いされては・・・」と言われた。察するに、常務自身もあまり賛成ではないが、若い私の思いつきを無下に退けるのも可哀相だと思われてのことだったのだろう。

翌日、重役会議の後、その席に呼び出され、社長に直接説明させられた。一介の課長代理に過ぎない身で、ワンマン社長に直接お伺いをたてるなど、めったにあるものではないのだから、ずいぶん緊張して申し上げたことだった。

前日の皆さんの様子から、社長のお許しは頂けないものと思っていたら、意外にも社長はいとも簡単に「いいだろう。君の案では、各人に採用辞令を手渡し、訓示をするということだね、よし、分かった。今度の四月一日は予定を入れておくよ。」と言われたことであった。

私としては、重役の皆さんがあまり乗り気で私の提案が、社長の鶴の一声で日の目を見ることになり、嬉しさはひとしおのものがあったが、喜んでばかりはいられない。肝心の入社式を社長の意に叶うよう立派に演出して、新入社員の士気を高揚し、皆さんに喜ばれる入社式にしなければならない。気がついてみれば、自分で自分を窮地に追い込んでいた。

その後、野見山芳久君や、山本操一君等の知恵を借りて、式次第をはじめ、諸々の準備を進めて行った。そのうちに、入社式に新入社員の父兄を呼んではと思いついた。家族ぐるみわが社に親近感を持ってもらい、入社後、新入社員が帰省して職場の話をするとき、父兄が会社のたたずまいや、社長の顔に馴染みがあれば、一段と会話も弾むことだろうし、そうしたことが若者の定着につながり、ひいては仕事に対する意欲の向上となるのではないかと考えたからである。

だが、これまた重役さん方からは「幼稚園の入園式でもあるまいし・・・」などと言われ、甚だ評判が悪かった。しかし「試みに一度やってみたら。」という吉鹿常務のお言葉に助けられ、父兄を招待することとなった。

本社本館と道を挟んで向かい側の新食堂で入社式を行い、式の後、そこで父兄ともどもささやかなお祝いの会食を催すことにした。

なにしろ初めての試みとあって、仕出し屋への注文など戸惑うことが多かったが、松田さんや野見山、山本両君等の献身的な協力で、着々と準備が整い、式当日を待つばかりとなった。

しかし、心配の種は尽きぬもので、当日の天候が気になってならない。式場の新食堂は入り口が狭く軒先が浅い。雨が降ったら、傘を畳む時に身体が濡れる虞がある。また、本館から新食堂へは傘をさして道路を横断しなければならない。社長を案内するとき、土砂降りとなったらどうするか。心配し始めたらキリが無い。ひたすら翌朝が晴れる事を祈って前夜は床に就いた。

当日の朝は、菜種梅雨というのであろうか、夜半からの生暖かい雨が降っている。しかし、大降りでないのがせめてもの救いである。この位なら大したこともなかろうと思いながら出社する。幸いにして、式の始まる頃には雨も止んでくれた。

当日参列した浅川君のお母さんが、入り口の所で,コートの袂(たもと)から新しい足袋を取り出して履き替えられたのが、今でも目に浮かぶ。

予定通り式次第は順調に進み、社長訓示では、ユーモアを交えて話されるなど、社長も終始ご機嫌良く、発案者の私はホッと胸をなで下ろしたことであった。

式後の会食も和やかな雰囲気のうちに終わり、新入社員一同は、松田さんの引率で、今日からの宿舎となる吉隈炭坑の職員寮へ出発した。

父兄の皆さんには,会社案内のパンフレットとお車代をお渡しして、マイクロバスで事業所の見学の後、新飯塚駅と吉原町バスセンターへお送りした。

後に野見山君から知らされたことだったが、殆どの父兄は昼食の折り詰めに箸をつけることなく、持ち帰られたようである。皆さんわが家に帰って、わが子の入社式の模様を家族に話しながら、折り詰めを開いて心祝いをされたことと思われた。その反省から、次の年からは、文字入りの生菓子をお土産として用意することとした。

その日参列された父兄の方から後日、次のようなお便りを頂いた。
「入社式では大変お世話になりました。社長様のお話を伺い、立派な会社に採用して頂いたわが子の幸せを改めて感謝しております。(中略)先日田圃のあぜ道で、ライオンドッグの商標がついているセメント袋が風に吹かれているのを見つけ、急いで拾いました。今までは見過ごしていたものが、入社式の日から身内の気がするようになりました。(後略)」

(平成九年十二月)

ramtha / 2020年3月28日