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「第四話」 ゴム印とペン書き

私の父は女学校の教師をしていたとき、書道の教員が欠員の折、暫く代役を勤めたことがある程の能筆であったし、母もその昔小学校教員を勤めた経歴の持ち主で、先ずは見苦しからざる字を書いていたのに、どうしたことか、私は子どもの頃から習字を最も不得手とする極端な悪筆である。会社でも労務、人事など書類を作成することの多い職場にありながら、少しも上達しない自分の字には、ほとほと嫌気がさしていた。
ところが文書課に来てみると、千人あまりいる会社職員の氏名を書かねばならぬ機会がしばしばある。昇級や賞与の査定時はもとより、職員録の作成のときなど、いやでも書かねばならない。習字を得意とする広津女史などは、苦にすることなく、むしろ見事な自分の筆跡を楽しみながら書いているようである。
しかし、改姓などめったにない職員の氏名をその都度手書きするのは労力の無駄ではないか。職員全員の氏名をゴム印にして、必要の都度それを捺したらよいではないか。字を書くことの嫌いな私にはそう思えてならない。そこで早速職員全員のゴム印の作成を提案した。
ペンやボールペンで手書きするより、ゴム印を捺印する方が時間もかからず、鼻歌まじりでしても書き誤ることもない。だから誰しも賛成するものと思って提案したことであったが、広津女史から即座に異議が出た。
彼女の言うには、
①千人あまりのものゴム印を作る費用がもったいない。
②それだけのゴム印の中から必要な一つを選び出すのは大変で、探す手間を考えると、手書きの方が速い。
その上千個のゴム印を無くさないように管理するにも気を遣わねばならない。
④職員が退職して行ったらそのゴム印は無駄になる。
と言うのである。
そこで、まずゴム印の値段を調べてみたら、一個三十円という。職員全員の氏名印を作るには、三十円×千人で三万円となる。
次に、年間のゴム印の使用回数を考えてみると、メインイベントとしての昇給査定、夏冬の賞与査定がある。そして、一回の査定時に、査定用紙、計算用紙、通知用紙など最低三回は使用する事になる。とすれば、年間最低使用回数は九回以上となる。
四十年ばかりも昔のことで、計算の詳細は忘れてしまったが、ゴム印使用で節約される労働時間を算出し、これに当時の職員の平均時給を乗じてコスト計算したところ、ゴム印作成に要する費用は、一年以内で償却し得ることが分かった。
また、ゴム印の管理については、最も多く使われる順序、すなわち職制の配列順序に従って印鑑箱に保管し、それから抜き出して使用するときは、取り出したゴム印の所に小型の定規を挿しておき、ゴム印使用後はその定規と取り替え元の位置に返却保管する事にした。
こうすれば、ゴム印の配列は乱れることなく、取り出しも容易に出来る。こうした工夫は課員全員で知恵を出し合った結果である。こうした検討をしている内に、最初は疑問視していた広津女史も次第に軟化し、ゴム印使用は実現した。
よろずコンピューターで事務処理される今日からすれば、まことに幼稚な事務合理化ではあったが、私にとっては忘れられないことであり、その実現で得た自信はその後の合理化推進の原動力となった。
ゴム印導入から日ならずして、能筆家の広津女史は球麻痺と言う難病を患い、再び職場に復帰することなく、あの世に旅立ってしまった。
既にゴム印を作っていたから、広津女史がいなくなっても、通常の氏名書きに支障をきたすことはなかったが、人事異動に伴って交付される辞令は、それまでもっぱら広津女史が毛筆書きしていたので、早速その代役捜しに苦慮することとなった。
単に毛筆をよくする者というだけなら、それ程の困難はないのだが、職員人事の機密に接する職務柄、口の堅い事が要求される。幸いにしてその時は、その条件に叶う山門栄想君を広津女史の後釜に連れて来ることが出来た。
しかし、考えてみると、いつも口堅い能筆家がみつかるものでもないことと思われるし、日常毛筆が使われる風習が次第に薄れつつある昨今、ますます難しくなることと思われた。とすれば、辞令を毛筆書きからペン書きに転換してはどうだろう。毛筆をよくする人は少なくなっても、美しいペン書きをする人は多く、容易に獲られる違いない。そこで課長に提案した。
課長は私の説明を聞いて、暫く思案するように見受けられたが、やおら重い口を開いて「吉鹿常務に伺っては」と言われる。さきの入社式問題以来、課長をさしおいて私が直接重役室へもの申すことも、許される形となっていたので、私自身が吉鹿常務にお伺いすることに異存は無かった。
しかし、吉鹿常務はかつて文書課長を勤め、文書課の事務慣習を作られた方であり、永年にわたり美しい毛筆によって辞令の権威を護ってこられたのではないかと思われる。そう考えると今度は容易にお許しが頂けないのではないかと危惧された。
その頃本社の事務合理化について、重役室から管理課、研修課及び文書課に宿題が課せられていた。そこでその中間報告を兼ねて吉鹿常務にお伺いすることとした。
その日、予め山門君に毛筆書きとペン書きの二通りの辞令の雛形を用意して貰った。毛筆はいささか乱暴に、ペン書きは美しく丁寧にと言って書かせた二枚の辞令を手に重役室に入って行った。
退社時刻を告げるベルが鳴り、吉鹿常務は椅子から立ち上がって書類を風呂敷に包んでおられるところだったが、私がご都合を伺うと、腰を下ろされて私に説明を促された。
そこで、先ずその日の合理化委員会の状況を報告した。常務は熱心に私の説明に耳を傾けられ、終わりに「いままでの慣習を打破して事務を合理化するには、いろいろ抵抗もあることでしょうが、思い切って進めて下さい。」と言われた。
好機逃すべからず。私はそれまで後ろ手に隠し持っていた二枚の辞令を提示して、事務合理化の手始めとして、辞令をペン書きに改めたい旨申し述べた。常務は一瞬鳩が豆鉄砲をくらったような表情をされたが、やがて「結構でしょう。」と言われた。そのときちょっと苦笑いされたように私には見受けられたが、常務の気が変わらぬうちにと、慌てて「ありがとうございました。」と敬礼するやいなや急いで退出した。
麻生の三聖人の一人と言われた常務をペテンにかけたようで、後味の悪い思いが残ったが、むつかしいと思われた難関を、一つ突破した思いをしたこともたしかである。
(平成九年十二月)

ramtha / 2020年3月26日